藤原辰史(2012)『稲の大東亜共栄圏 帝国日本の<緑の革命>』吉川弘文館
品種改良という技術は、耕地整理、肥料の普及、農作業の機械化などによって構成される農業技術近代化のパッケージの一部にすぎず、これらの要素と密接に関連しており、それだけで稲作の生産力を上昇させることは当然できない。(本書 p.12)
やはり、導入に成功したという定評のある新技術でさえ、慣習的にも経済的にも生理的にも、どれほど違和感を持って受け入れられたかが明らかであろう。(本書 p.130)
本書は稲の品種改良を通じて、大日本帝国がどのような大東亜共栄圏を描こうとしたかに迫っている。
1934年、東北地方を中心に大飢饉が日本を襲った。腹が減っては戦はできぬ。食糧、なかんずく主食の供給が足りなくなるのは大東亜共栄圏建設を目指す大日本帝国にとってゆゆしき事態だった。
そこで政府はすでに影響下においていた満州のほか、統治下の朝鮮、台湾で米を作り、内地の需要を賄おうとした。
元来、タイやベトナムで食べられていることから分かる通り、コメとは南方の植物である。それを朝鮮や北海道といった寒冷地で育てるためには品種改良が必要だった。結果、冷害や病気に強く、収穫量も多い品種ができた。ただ、化学肥料を多くやらねばならなかった。
たとえば台湾の場合、内省人は甘藷といったイモ類とコメなど、さまざまな就職をもっていた。外省人の場合はインディカ米を食べていた。彼らには彼らの暮らし方があり、その中でコメが作られていた。だから日本のコメはビーフンに不向き、家畜の飼料にならないなどの理由で敬遠された。
ただ、在来種より有利な点があった。在来種より多くの化学肥料を与えると、とたんに多く収穫でき、多くの現金収入が入るのだ。結果、収入を求める農民は多くを肥料に投資し、多くの現金をえて、更に来年、また多くの肥料に投資する…といったサイクルに組み入れられ、これまでの暮らし方も当然変わっていった。
これは単に品種改良をしてよかったね、という話ではない。品種改良は地元の人々の暮らし方を変え、化学肥料企業を中心とした大経済圏に組み入れられることを意味する。こうした流れは終戦とともにいったんの終焉を見るが、農業の品種改良といった聞こえのいい帝国主義は、戦後も生き続け…
品種改良は単に味や収穫量だけで行われるのではない。その裏では企業の熾烈な戦いが繰り広げられている。