腹を決めた。
(本書 p.41)
「命令したのは私だ」
紅粉は切り出した。この一言ですべてが決まった。
「私が機関長に命令した。彼に責任はない。頼むから、ほかの三人と一緒に日本に返してやってくれ。頼む……
「北朝鮮は官僚主義なんです。誰も責任を取りません。私が脱走すれば、軍の上司が責任を取らされます。私が南浦港から密航すれば、警備兵が責任を追及されます。しかし、誰も責任を取らないとなれば、第三者の悪人を仕立て上げる以外に方法がないでしょう。それが富士山丸の船長たちだったんです」
(本書 p.256)
日本と北朝鮮の間にある人権問題として一番に挙げられるのが拉致事件です。戦後から2000年代までを中心に北朝鮮が工作のため日本中から日本人を拉致しました。ある者はスパイ養成の日本語教師に、ある者は戸籍はそのままで北朝鮮から来た人と入れ替わるなど、浸透工作は多岐に及びます。一連の拉致事件の一部を北朝鮮が認めたのは2000年の小泉訪朝でした。ただ、その前に北朝鮮によって不当に拘束された日本人がいました。一人は日本海側で漁をしていたら海難事故(を装って?)で北朝鮮に保護され、そのまま現地に暮らすことになった寺越武志さん、もう二人が本書で出てくる紅粉勇船長と栗浦好雄機関長です。1983年から1990年まで7年間、北朝鮮で抑留されていました。釈放の条件として北朝鮮を悪く言わないこと、言うと家族が交通事故にあうかもしれないなどと脅されましたが、船長が阪神・淡路大震災を経験し、死んだら残らないのだから死ぬ前に記録を残そうとした結果、書かれたのが本書です。
1983年当時、日本と北朝鮮の間に国交はなくても、貿易はありました。その一つ、はまぐりを始めとする魚介類の輸出入を行っていた船が、紅粉船長や栗浦機関長の乗る富士汽船の第十八富士山丸です。
1983年11月3日、北朝鮮の南浦からはまぐりを積んで帰国する途中、密航者を発見します。李英男と名乗るその男は山口県で入管に引き渡されました。入管の考えは当初、四日市ではまぐりをおろした富士山丸に密航者を送り返してもらう予定でした。そのため、富士山丸は当初予定になかった北朝鮮への渡航のため、新たな貿易契約をします。しかし取り調べが長引いたことから、密航者なしで北朝鮮に行くことになりました。その事情は朝鮮総連関係者にも一筆書いてもらい、最善を期しました。しかし北朝鮮につくと北朝鮮の公民を不法に日本に連れて行ったかどで逮捕、勾留されます。同じく捕まった一等航海士、機関士、コック長は船長が罪をかぶったので釈放されました。船長と機関長だけが7年間抑留されます。罪状認否すらない裁判で二人は労働教化刑15年に処せられ、強制収容所に入れられました。持病を持つ二人でしたが、幸いに強制労働はさせられず、強制収容所では仲良くなった看守からアヒルの卵をもらったり、畑を耕して暮らします。
いっぽう、残された人々も奔走します。家族は当時朝鮮労働党と友党関係にあった社会党の代議士に働きかけ、年に何度かあった議員の訪朝団に望みを託します。土井たか子が金日成に会ったとき、事前には断られていた二人の話を持ち出し、政府間対話の緒を掴みます。その頃には署名活動などで世論も大きく動いていたことが功を奏しました。中曽根首相が中国の胡耀邦国家主席に協力を依頼、訪朝団も働きかけるなど大きく動きました。また国際情勢もラングーン事件以来かけていた制裁の解除、米国の対北朝鮮政策の変更、中国、ソ連の韓国への接近などもあり、大きく動きます。結果、二人は最終的に金丸・金日成会談で釈放が決定されました。
7年の間に紅粉船長の父は亡くなり、富士汽船は破産、社長は心労がたたって寝たきりになりました。また、根拠のない噂レベルの話ではありますが、自民党副総裁まで務めた金丸もこのときに北朝鮮に接近しすぎたため米国の信頼を失い、失脚します。その後、失意のうちに亡くなりました。官僚主義国家におけるたった二人の勾留が、多くの人の人生を変えました。一方、特例的な措置で日本に亡命した李英男と名乗っていた閔洪九は窃盗などで前科を重ねつつ結婚、子供を持って日本で暮らし続けます。
本書では北朝鮮との問題が起きた場合のルートとして外務省は5つ考えていたと明らかにされています。当時は通常の外交ルートのほか、議員連盟などを通じた働きかけが可能だったのです。一方、強い制裁を実施している今はそうした交流がありません。交流を狭めてまで制裁するのも、ある程度の交流を残して制裁を緩和するのも、どちらも一長一短です。表の外交ルートで行うのが筋ですが、一筋縄でいかないのが国際政治だと改めて知らされます。