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レビュー

琉球の言葉は彩り豊か

日本語と琉球語が祖語からいつごろ分岐したのかは明らかになっていないが、西暦500年ごろだという研究者もいる。現在存在する多種多様な琉球諸語・方言は言語学的な特徴に基づき分析すると、奄美語、国頭語、沖縄語、宮古語、八重山語、与那国語の6つの言語に分類できる。

本書 p.53

日本語以外に琉球語と同系統である言語はあるのだろうか。これまでの研究によると、琉球語と直接的な同系統関係にある言語は日本語だけである。

本書 p.191

本書は北は奄美諸島から南は南西諸島まで、琉球弧を描く島々の言葉を横断的に見て、そこから祖語を再構築するための入門書です。

本書では琉球語を北琉球語と南琉球語に分け、前者に奄美語、国頭語、沖縄語を、後者に宮古語、八重山語、与那国語を設定します。前半では沖縄語を例にして、日本語との違いを示します。たとえば「っ」や「ん」(っんじゃん(行った))で始まる語があるなど、代表的な違いを概説します。

中盤以降、琉球祖語の再構をしていきます。これらはすべて同じ言語だから内的再構(あるいは内的再建)と言っていいのか、それとも違う言語として扱うべきなのか、私にはよくわかりません。しかし与那国語と奄美語では相互理解不可能でしょうから、内的でない再構と言ったほうが適切かもしれません。

「ありがとう」を表す語も奄美語では「おぼこりょーた」、沖縄語の今帰仁方言では「かふーし」、与那国語では「ふがらさ」と、一般的に沖縄語学習者が学ぶ那覇方言(あるいは首里方言)の「にふぇーでーびる」とは大きな違いがあります。琉球弧の言語は多様です。

祖語の再構はまず小さな単位から始めます。例えば「鏡」という語を例にとり、名瀬ではkagan、湾ではkagami、伊仙ではkagamiということから、*kagamiと再構するなど、奄美祖語や国頭祖語を再構し、最後にそれぞれの祖語を比較して琉球祖語を再構します。

丹念な手続きに則って再構するのは比較言語学の鉄則です。琉球語の概観を知るほか、比較言語学の入門書としても本書は良書ではないかと思います。

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サントリー学芸賞 レビュー

上流階級の馬車中心主義

鹿島茂(1993)[1990]『19世紀パリ・イマジネール 馬車が買いたい!』白水社

このように、テクノロジーの進歩によって新しい交通手段が登場する際には、意外にその前の時代の交通手段の構造を受け継ぐもののようだ。もし、大型旅客機がフランスで最初に実用化されていたら、あるいはこれもコンパートメント型になっていたかもしれない。(本書 p.38)

我らが主人公たちが出世への野心を燃やすきっかけとなる場面は、不思議なことにどの小説でもほとんど同じである。すなわち、シャン=ゼリゼの大通りで豪華な馬車の行列を見たときに、我らが主人公たちはにわかに上流の生活に憧れをもつようになるのである。(本書 p.187)

おもしろい! サントリー学芸賞を受賞している本なので期待はしていたが、その期待を裏切らない面白さだった。

筆者の疑問は自動車でフランスを旅行していた時に田舎で目にする「パリ通り」という名前の街路から出発する。その名前が付いているのは決まって日本の○○銀座のような繁華街ではなく、町はずれのさびれた街路である。これは田舎からパリにつながる道、逆にいえば青雲の志を持って若者が故郷を出立し、一獲千金を夢見て旅立った際に最後に通った故郷の道である。19世紀の様々な典籍を渉猟し、挿絵を豊富に入れながら、19世紀の小説の主人公がどのような生活を営み、その頃のパリはどんな様子だったか、どうやって上流階級を目指すのかといった、「我らが主人公」のプロトタイプを浮かび上がらせるのが本書の目的である。

彼らの田舎からパリに出る方法、パリでの衣食住を具体的な金額を提示しながら描き、どの時代にどこが流行の発信源であるか、どこに行けば上流階級と知り合いになれるか、上流階級になるためにはどれくらいのお金(現代日本の価値で年間二千万円以上!)が必要かを描いていく。

いくら懐がさびしくても上流階級らしい振る舞いをしなければならない彼らのプライドや衣服が一番換金性の高い財産だったというような、今では考え難い事実など、本書を読むと発見がいっぱいである。

とくに19世紀の小説を読むときには、本書のタイトルにも取られているような馬車のステイタスなどを意識してこそ、その真髄が味わえるのだろう。とくに巻末の「馬車の記号学」は様々なタイプの馬車を簡潔にカテゴライズしてあって、わかりやすい。

個人的には、馬車とその後の交通手段の話が興味深かった。乗合馬車の前方から1等、2等、3等と座席のランクが分かれていたというのは、現代の飛行機にもそのままあてはまるが、そのあたりの関係はどうなんだろうか。(著者は引用の個所の通り、それはアメリカの影響だとしているが)現代の乗り物の淵源がフランスやアメリカの馬車にあるというのが興味深い。我々が毎日乗っているのも、元をたどれば19世紀の欧米に行きつくのだ。

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レビュー

古書で借金かかえても

鹿島茂(2003)『それでも古書を買いました』白水社

書評用の献本が一か月で最低百冊は送られてくるから、その沖積ぶりは尋常一様のものではない。ほかに、自分でも、月に十万円分くらいの新刊本を買う。研究用のフランス語の新本と古本は別予算だから、毎月、合計何冊ずつ増加してゆくのか見当もつかない。(本書 p.94)

もちろん、床という床には本がうずたかく積みあげられ、次男は数百万円もする一五〇年前のジャイアント・フォリオ判の古書の上でメンコをしていた。残された空間といったら、あとは天井しかない。私はときどき天井を見つめながら、なんとか限定的に無重力状態をつくりだして、天井に本を置く方法はないものかと夢想した。(本書 p.89)

かつて河盛好蔵氏から「研究者というものは買った本が一ページでも役にたったなら、それでよしとしなければなりませんよ。最初から最後まで全部役にたつような本だけを集めようなんて、そんなケチな根性では、研究者はつとまりません」というお話をうかがったことがあるが、まさにその通りだと思う。(本書 p.91-92)

洋古書収集家でも知られている鹿島茂のエッセイ集。なぜ自分が本を集めるのか、本の集め方の流儀やその収納方法、お金の捻出方法(といっても土地と家を抵当に入れて銀行から借りる!)などが軽いタッチで描かれている。

コンテナいっぱいの新聞記事をフランスから船便で送ってもらって、量のことを考えずにいたため、物理的にも経済的にも持ち運びに困った話や、置き場所に常に悩まされている話など、興味は尽きない。

ここまで根性を入れて本を集める気概があるというのは見習うべき点だ。しかもフランスの古書は装丁が皮であるためにその手入れも必要だという。好きでなければできない、その世界の奥の深さに峻拒した。