カルロス, カスタネダ(真崎義博訳)(1973)『呪術の体験 分離したリアリティ』二見書房
「見ることが他の人になんの影響も与えないってことは?」
「もう言ったろうが、見ることは呪術じゃないんだ。だが人はすぐ混同しおる。それは、見ることのできる奴はさまざまな盟友のあやつり方を学んで呪術師になれるからさ。だが、盟友を支配するためにある技術を学んで呪術師になることもできるが、そういう奴は決してみることは学ばんのだ。それどころか見るってのは呪術の反対で、呪術なんぞちっとも大事じゃないってことを気づかせてくれるんだ」
「何が大事じゃないって?」
「何もかもだよ」(pp.209-210)
前書『呪術師と私』に続くカスタネダの著書。余談ではあるが真木悠介の『気流の鳴る音』の描写は本書から来ている。
カスタネダはドンファンに、見るというのはどういうことか。どういう状態のことをいうのか、再三再四教えを請うが、ドンファンはそれは見ることによってしか学べないのだと言って(カスタネダにとっては)明確に答えてくれない。見るためには煙が必要であり、煙を通して訓練して、見ることができるのだという。見ることによって何が変わるかというと、何も変わらない。ただ、すべてが管理された愚かさの下に置かれ、善悪も好き嫌いもなくなり、すべてが平等の世界になるとのことであった。
第二期の修行でドン・ファンが特に関心を寄せたのは、わたしに「見る」ことを教えることであった。彼の知の体系では明らかに、異なった近く方として、「見ること」(seeing)と「眺めること」(looking)には意味上の区別があった。「眺める」というのは、いつもわたしたちが世界を知覚している普通の仕方であり、「見る」というのは、それによって知者が事物の「本質」を認知する非常に複雑なプロセスを伴っている。
(pp.16-17)
見ることは幻覚性のキノコを用いて、新たな世界を探ることだと思う。カスタネダは10年かかっても苦労しているが、鈴木大拙はだいたい10年で禅のものの見方はできるようになるだろう、といっている。それほどドン・ファンの教えは難しいんだろうか。
本書ですごいのは、ドン・ファンの力だと思う。カスタネダの小さな頃の知り合いの話を当ててしまったり、わざと車のエンジンをかからなくさせたりした。知者であり、意志を持つものであるドン・ファンはやっぱりすごい。
つい僕はカスタネダ側に立ってしまう。それはあまりにも純粋で、我々の気持ちを代弁しているからだと思う。ただ、我々の見ている世界だけが世界のすべてではないというのは前の著書での到達点の一つだと思うし、カスタネダも努力しているんだけど、なかなかドン・ファンの思っているところにたどり着くのは難しいらしい。ドン・ファンのいった目を使うだけでなく、耳も使って見ろ、というのは印象に残った。