今西(筆者註:錦司)は生前「わしに進化論をはじめて教えたのは三上やで」と言っていた。三高時代の今西に進化論の手ほどきをしたのは、古今東西の主要著作に親しみ博覧強記で知られた三上章だった。
本書 p.93
「象は鼻が長い」で有名な三上章の一生を描いた本です。丹念に取材をして、三上章の人生を、生まれから死去まで追っています。また、くろしお出版の会長や実妹・茂子など生前の三上章と交遊のあった人たちにも会って話を聞き、エピソードに肉付けをしています。三上はこの論文に相当の自信を持っていた。それで、すくなくとも古語、雑誌『コトバ』に載るすべての論文から「主語」という言葉は消えて無くなるに違いない、と本気で信じていたそうである。-「次の号から、いや印刷に間に合わないということもあろうから(!)次の次の号から」そうなるだろうと。
本書 p.160
三上章は1903年1月26日に広島県高田郡甲立村に生まれました。三上家はもともと武家で、三上の生まれた明治の時代は豪農でした。大叔父(母方祖母の弟)の義夫は数学者で和算を世界に紹介した科学史家として有名です。
幼い頃は病弱で病に臥せっていたこともありましたが、広島市内の中学校に入学するとスポーツを通じて健康になりました。小さな頃から読み書きや計算に優れていましたが、数学では気に食わない問題が出ると白紙で提出したり、xyzと書くところをセスンと書くなど、反骨精神のある子だったようです。その調子で主席で入学した山口高校を退学し、数学が得意だった御神は三高理科甲類に入学します。三高では今西錦司と同級生、桑原武夫の1年上にあたります。卒業後は当日の受験拒否騒動などありながらも、叔父義夫の勧めで東大建築学科に進学します。当時は文系では食えず、関東大震災後の東京では建築の仕事はいくらでもありました。
卒業後は台湾総督府で技師として働くもすぐに退職し、内地に帰ります。しかし仕事をせねばなりません。戦前は数学教師として朝鮮に赴任しました。1935年には広島に帰国、1938年からは大阪の高校で教鞭をとります。数学教師をしながら、日本語文法の研究をし続けました。金田一春彦の勧めもあって本を出版し、佐久間鼎の支えもあって東洋大学で文学博士号を取得します。そのおかげで武庫川女子大学、大谷女子大学で教鞭をとることになりました。
私生活では結婚せず、母フサ、妹茂子と3人で暮らします。しばらくは健康に過ごしていたようですが、戦前からすっていたタバコ(一番きついゴールデンバット)のほか睡眠薬ヴェロナールも常用し、また躁うつ病をわずらうなど、順風満帆とは行きませんでした。大谷女子大学では時間に正確なことでも有名で、始業前にドアの外で待って、ベルが鳴ったら入ってくる。またベルが鳴ったら話の途中でも切り上げる。だから「とは言」とだけ言って帰り、次の授業では「えない」から始まる。といった一種異様な有様を呈しました。
才能は恵まれた三上が自らの健康と引き換えにしてささげた文法研究が生前は正当な評価を受けなかったのは残念なことです。しかし生誕100周年の2003年には三上章フェスタが開かれる(余談だが、このフェスタに妹茂子は大阪から駆けつけ、久間鼎の次男均にお礼を伝えた)など、ある程度の地位は持ってきたように思えます。大きな業績の裏側では、三上の私生活を支えた母や妹、そして出版社や一部の学者の力があったことを教えてくれる本です。
惜しむらくはその偉大さを伝え切れていない点です。著者は日本語を教える過程で三上文法のすばらしさに気づいたそうなのですが、そうならば従来の文法(著者があげている橋本文法など)を取り上げ、比較検討して優位性を示してほしかったと思いました。
また、エピソードが足らないからか、ある年代の時代背景を描くのに世界や日本の出来事と「三上はどういう気持ちでいただろう」などの著者の感想がやたら入ります。そのため三上と周りの人のエピソードが散漫になってしまっています。歴史上の出来事や感想はできるだけ控えて書いた方が伝わったのではないかと思います。本人の人となりを伝えるという点では関口存男の周りの人が死後に思い出を語った『関口存男の生涯と業績』や斎藤秀三郎を知っている人に丹念に取材をしてエピソードを集めた『斎藤秀三郎伝―その生涯と業績』の方が人となりが伝わります。本人の学習ノートも見せてもらったほか、「雑談の名手だった」というエピソードも聞いたのですから、研究に対する真摯な姿勢、鬼気迫る様子などもおそらく伝え聞いたのではなかったかと思います。三上がどのような姿勢で研究をしていたのか、ぜひ知りたかったです。