ドイッチャー,ガイ(2012)『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』インターシフト
今日の言語学者や心理学者の大半は、母語が話しての思考に影響を及ぼし得るという見方を頭から否定したり、たとえ影響があったとしてもきわめて小さい、あるいは問題にする価値もない、という態度をとっている。しかし近年、一部の勇敢な研究者たちがこの問題に科学的手法を適用するようになった。そして、その研究からはすでに、母語に固有の特徴が意外な形で話しての心に影響を及ぼす、という結果が得られている。(本書 p.32)
ジェンダーが言語から詩人への贈り物であることはいうまでもない。ハイネの男性名詞の松の木は、女性名詞の椰子に恋い焦がれる。ボリス・パステルナークの「我が妹人生」は、ロシア語で「人生」が女性名詞だったからこそ成立した。シャルル・ボードレールの「L’homme et la mer(人と海)」の英語訳がいかに見事でも、ボードレールが「彼(人)」と「彼女(海)」のあいだに喚起した激しい愛憎を再現できる見込みはない。(本書 p.268)
Guy Deutscherの代表的著作、Through the Language Glassの日本語訳。同署は2011年にRoyal Society Prizes for Science Books(アメリカのサントリー学芸賞みたいなもの)にノミネートされた。
書いてある内容はとても一般向け。分野としては一般言語学から言語人類学と言われる分野になる。
たとえば、有名な研究である人は色をどう見るか、という問題を分かりやすく解説している。言語によって色の区分はまちまちだ。英語でgreenとblueは区別するけど、日本語だと緑でも青信号、青りんごという。ただし当然、日本人も見た目では青と緑の区別はついているわけで、それを言葉にあわさないだけだ。区別の仕方はある程度のパターンがあって(黒と赤を同じカテゴリに入れる言語はない)、色のスペクトルを全く恣意的に分類しているわけではないが、まったく同じような分類をしているわけでもない。
また、絶対座標と相対座標、言語の性などの事例を持ち出して、言語が人の思考に与える影響について考えている。サピア・ウォーフの仮説の再検証だ。著者が使える英語やヘブライ語のほかにも、ヨーロッパ言語、日本語はもちろん、オーストラリアの先住民言語まで持ち出してさまざまな言語現象を引き合いに出し、決してメジャー言語(話者数の多い言語)の常識が人類の常識でないことを示す。
一番面白かったのは2012年に話題沸騰となったピダハンの反証が載っていること。それだけでも充分にこの本の価値はある。(ここ数年、ブラジルのアマゾン流域で使われるピダハン語に従属関係がかけている、という説が学界をにぎわせた。(本書 p.151))
『言葉の眼鏡を通して』という原題は、言語哲学でよく言われる「言語は現実を大雑把に切り取るだけで、細かい部分では取りこぼしがある」という性質を含意したものなのに、日本語訳では魅力が半減している。残念だ。中身は素晴らしいのに、残念だ。