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批評はまずストーキングから

北村紗衣(2021)『批評の教室 ――チョウのように読み、ハチのように書く』筑摩書房

お気に入りの訳者が出ている上演を見るときは自分が性欲に欺されていないか、訳者の魅力に圧倒さrているだけではないのか、ということを注意して見るようになりました。

本書 p.45

また、私は自分が男性同士の親密な関係に何らかのエロティシズムを感じるスラッシャー(日本語では「腐女子」と言うことも多いですが、ネガティヴな感じがするので私は英語圏で使う「スラッシャー」のほうが好きです)だということを明らかにして批評をしていますが、そう自覚してからは批評がむしろやりやすくなりました。

本書 p.48

本書はさえぼう(saebou)先生としてTwitterの一部界隈では有名な北村紗衣 武蔵大学准教授の書いた書評入門書です。本書の冒頭では以下のような(ほかにもありますが)書評を書くための条件が示されます。

  • 精読する
  • 作者には死んでもらう
  • 嘘を見抜けるようになる

こうしたことは、初心者にとって言うは簡単ですが、行うは難しいことです。

精読するには作者の意図などを気にせずに(作品は書かれた時点で読者のものです)文章の一言一句にまで気を使って読み、ストーリーテラーが必ずしも正直ではない、あるいはすべてを語っているわけではないことを踏まえつつ読んでいかねばなりません。

そのあとに分析が始まります。どこがおもしろくてどこがつまらなかったのか。それを分析するには物語を要素に分解してほかの何の物語と似ているかを見ていきます。昔話のタイプインデックスというものがあり、一通りの昔話はカテゴライズされているようです。

それらを踏まえた実践編として著者による『ごんぎつね』の書評、著者と教え子による『あの夜、マイアミで』と『華麗なるギャッツビー』の映画評が実演されます。

自らが行っていることをここまで簡単に説明できるのは著者の実力がなせる業だと思います。しかし一方で、斎藤美奈子や米原万里など、短いけども読ませる書評も多くあります。それらとここで書かれている書評との違いは何なのだろう、と考えさせられました。

そういった点から、本書も必ずしも絶対唯一の批評方法を述べているのではなく、書評や映画評などで数ある批評の方法の一つを学ぶ本だと言えるでしょう。

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オールマイティーなリーダーになるための導きの書

佐藤優(2014)『「知的野蛮人」になるための本棚』PHP研究所

私から見て、一番の「本読み」は、松岡正剛氏です。それから、斎藤美奈子、鹿島茂、立花隆、佐高信の各氏。こうした「本読み」の書いた読書についての本をきちんと読んだほうがいい。(本書 p.8)

図書館は使わないほうがいいと思います。お金はかかりますが、本は本屋で買うことです。(本書 p.15)

出世したかったら『読書の技法』、楽しい会社員生活を送りたければ『人に強くなる極意』を読めばいい。すると本書は?
『読書の技法』に近いですね。(本書 p.334)

『野蛮人の図書室』の改題、再編集。前後に対談が加わっているので、本書の位置がわかりやすくなった。

婚活、労働、そば、ビールからロシア情勢まで、様々の身近なテーマを理解するための導きの手として2冊の本を紹介していく。

本書の目的は「出世したかったら読むべし」と書いてあるとおり様々な出来事に対応できる力の付け方を教えることだ。それにはまず、本書に書いてある出来事を検証できる力をつけたらよい。

冒頭に書いてある本読みを見習うことについては賛成だが、初心者には少し雑だ。松岡正剛、立花隆、佐高信、斎藤美奈子、鹿島茂の5人は確かに本読みだが読み方が違う。読書量や出世のためだったら松岡や立花を読めばいいと思うが、本を読む楽しみを追求するなら鹿島や斎藤がおすすめだ。松岡や立花はすごいし圧倒されるけど冷静に読める。鹿島と斎藤はその熱意に引き込まれて面白そうな世界をもっと見たいと近寄ってしまう。そんな差がある。こうした説明をどこかで少ししておいたら親切に思う。

また、本書で著者は図書室の司書という役割で出ている。図書館は使わない方がいい、と言っておきながら。ここは本屋の店主にでも扮して「ということは…?」「この本も買って読みなさい、ということです」と言ってオチをつけたらよかったのに、と思ってしまった。

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暇がなくても読書をする方法

鹿島茂(1993)『暇がないから読書ができる』文藝春秋

大学の授業や雑用のほかに、新聞・雑誌に雑文を月に百枚以上は書いているので暇はまったくないのだが、なぜか、読書量は、書評のためのものを除いたとしても、急激に増加しているのである。だいたい最低でも、月に三十冊くらいは読む。(本書 pp.179-180)

これまた忙しかったせいもあり、鹿島茂の書評でも読んで気を紛らわせようとしたところから、本書を読み始めた。いつも書評を読むと思うのだけど、世の中には僕の知らない本はもちろんいっぱいあって、その中の相当数がこれまた面白そうなのに、なぜか寿命は長くないということ。

本書はやっぱり上手に面白そうな本を紹介しているのだけど、あとの方になるとほめてばかりで、多少はけなさないとこの人はなんでもほめるんじゃないかと思えてきてしまう。だから暇がないとか文句を言いつつも本を読んでは感想を書いている前半の方に好感をもった。

本書で紹介されている本でも、知らない本ばかり。でも確かに本屋に行ってみればおいてある本もまだまだ多い。サイパンに行くときにも本を持って行ってちゃんと読んでいたり、フランスの古本屋めぐりをするっていうのに十冊も本を持っていったりと(これは半ば仕事のため)、本当にすごい人だと思う。本は重いので、はっきり言って旅行の邪魔なのだ。しかし本がないと移動中にすることがなくなってしまう。このジレンマを解決する方法は、ぼくはまだ見つけていない。

逆に言うと本を読むしかないわけで、台湾のように人懐っこい人たちがいる国では、列車や飛行機の中で隣の人と話すこともあるけれど、アメリカの国内線なんかは機内サービスもないわフライト時間は長いわで、本当に何もすることがない。ネットもできないしパソコンを開くのも大仰だ。そう、本を読むしかないのだ。

そのためには、書評でも読んで読みたい本をピックアップするというのも、ひとつの手なのだ。

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古書で借金かかえても

鹿島茂(2003)『それでも古書を買いました』白水社

書評用の献本が一か月で最低百冊は送られてくるから、その沖積ぶりは尋常一様のものではない。ほかに、自分でも、月に十万円分くらいの新刊本を買う。研究用のフランス語の新本と古本は別予算だから、毎月、合計何冊ずつ増加してゆくのか見当もつかない。(本書 p.94)

もちろん、床という床には本がうずたかく積みあげられ、次男は数百万円もする一五〇年前のジャイアント・フォリオ判の古書の上でメンコをしていた。残された空間といったら、あとは天井しかない。私はときどき天井を見つめながら、なんとか限定的に無重力状態をつくりだして、天井に本を置く方法はないものかと夢想した。(本書 p.89)

かつて河盛好蔵氏から「研究者というものは買った本が一ページでも役にたったなら、それでよしとしなければなりませんよ。最初から最後まで全部役にたつような本だけを集めようなんて、そんなケチな根性では、研究者はつとまりません」というお話をうかがったことがあるが、まさにその通りだと思う。(本書 p.91-92)

洋古書収集家でも知られている鹿島茂のエッセイ集。なぜ自分が本を集めるのか、本の集め方の流儀やその収納方法、お金の捻出方法(といっても土地と家を抵当に入れて銀行から借りる!)などが軽いタッチで描かれている。

コンテナいっぱいの新聞記事をフランスから船便で送ってもらって、量のことを考えずにいたため、物理的にも経済的にも持ち運びに困った話や、置き場所に常に悩まされている話など、興味は尽きない。

ここまで根性を入れて本を集める気概があるというのは見習うべき点だ。しかもフランスの古書は装丁が皮であるためにその手入れも必要だという。好きでなければできない、その世界の奥の深さに峻拒した。