聖と俗に振れる宗教


ヒューム, デイヴィッド、福鎌忠恕ほか訳(1992)[1972]『宗教の自然史』法政大学出版局

人々の誇張された賛辞や追従が、それでもなおこれらの諸力についての人々の観念を膨張させる。そして彼らの神々を完全性の最極限まで高揚させて、ついに統一と無限、単一性と精神性の属性を産み出す。このような繊細な観念は俗衆の理解にそもそも対応していないので本来の純粋性に長い間とどまってはいない。そして人類とその至高神の間に介在する下級の介在者ないし従属的な代理者の概念によって支持されることを要求する。これらの半神半人ないし中間的存在は人間本性により多くあずかり、またわれわれにいっそう親密なので、敬虔の主要な対象となり、小心で貧窮した人類の熱烈な祈願と賛辞によって、以前に追放されてしまっていた偶像崇拝教をしだいに呼び戻す。(本書 pp.53-54)

来世の信仰により顕示された快適な視野は、忘我的で歓喜にあふれている。しかしそれは、宗教の恐怖の出現とともになんとすばやく消滅することであろう。この恐怖は人間精神をより強固に、より永続的に占拠するのである。(本書 p.105)

本書は佐藤優がアーネスト・ゲリナーの『イスラム社会』を絶賛する中で言及した、ヒュームの振り子理論が掲載されている本である。

要は一神教は素晴らしい、多神教はまだまだレベルの低い連中が信じているから、相手にしないでいい。そもそも多神教って、神々は一体だれが作ったのさ?ってことになるでしょ。というお話。そのため、多神教の本場、ギリシャのお話がいっぱい出てくる。一神教の立場からしたら論理的に多神教を受け入れないのもわかるし、ギリシャの放恣な神様と日頃の倫理を比べたらぜんぜん違うから、乗り越えるべき矛盾があるのもわかる。ただ、そこに21世紀の、そしてキリスト教徒でない者が読むべき現代性があるかどうかは微妙なところ。

肝心の振り子理論にしても、ゲリナーが書いてある通り、まずは身近なところに神々を見つけて、人々は多神教、偶像崇拝に走る。そこから、それらの神々や偶像の創造者に心をとめるようになり、すべてを支配するただ1つの神を信じるようになる。そうして洗練された一神教が出来上がるが、あまりにも洗練されすぎたために多くの大衆はついていけず、身近な神の代理人を作り出す。そしたら神の代理人がまた直接信仰を集めて多神教になり…の繰り返しというお話。

この振り子理論、面白いんだけど、結局2次元的な往復でしかない。ヘーゲルのいう弁証法は3次元的な螺旋のはずで、そのほうが理論としては面白い。しかしこの場合、一神教を克服したうえで多神教になるのかと思ったら、前提が蒙昧な俗衆なので、一神教を信じていたころのことを忘却して、また多神教、偶像崇拝を始めて元の木阿弥に戻るとみなしているんだろうから、たぶん振り子でいいんだろうと思う。

でもやっぱり、理論としてはヘーゲル的弁証法の3次元(螺旋)のほうが面白いし、現代性があると思う。