君には権力と対峙してまで守るべきものはあるか?


高橋和巳(1993)『邪宗門』朝日新聞出版

他者の犠牲にはならぬまでも、他者の苦悶を自分の心の痛みとして意識する存在でなければ、あらゆる理想主義的な計画は無意味なのだ。そして千葉潔は窮極のところ、それを信じることができなかったのだ。(本書下巻 p.270)

祈祷とは何か。それは愁嘆でも慰藉でもなく、僅かに残る可能性を、乾坤一擲、我がものとすべき法力を呼びさまそうとするものであるはずだ。祈祷は自己の宿命を断ち切り、歴史に非連続な局面を加える最後の手段である。(本書下巻 p.388)

「そう、その委任ということだ、つらいのは。君がね、この教団の開祖であり教祖であるのなら、いや率直に言ってしまえば、君が救霊会の人々と同じ信仰を持っているのなら、その委任には倫理性がある。だが……」 「マルクスもレーニンももともとプロレタリアートではなかったよ」(本書下巻 p.349)

芥川龍之介ではなく、高橋和己の邪宗門。これは京都府北部にある宗教「大本」が戦前に政府から受けた弾圧をもとに書かれた小説である。史実に基づくとはいえ、戦後の世直し運動などはフィクションらしいので、あくまでもそのあたりは誤解なきよう。

大本をモデルとしたひのもと救霊会は京都府北部の神部盆地に本部を構える新興宗教だ。家族の絆を第一に重んじ、ついで信徒の絆を重んじる。家族や教団など、小さな共同体の中での個人と個人のつながりに重きを置いている。そのため、個人の幸福を犠牲にして為政者の考えを実現させる国家とは折り合いが悪い。

新聞や機関誌を発行し、独自の工場まで持ち、信徒百万人を数えたひのもと救霊会に脅威を感じた国は言いがかりともいえる弾圧を加える。地元警察と特高警察が教祖をはじめとする幹部を逮捕し、本部を打ち壊してしまう。

散り散りになった信徒たちは、ある者は神部に残り、ある者は四国の巡礼に出かけ、ある者は大都市に出て個人単位でひっそりと布教活動を行った。救霊会の関東と九州の地方支部はそれぞれ独立を宣言し、国の御用宗教となって生き延びる道を選ぶ。しかし戦後、すべての価値観が逆転した。治安維持法違反として弾圧されていた救霊会だったが、法律自体が無効になったため、ほかの地方にある新興宗教や労働組合と手をとり、ここぞとばかりに巻き返しを図る…。

本書の中心は千葉潔という一人の少年だ。東北地方出身の彼は昭和の飢饉の際に親を失い、母親の肉を食べて生き延びた。母親が信じていた救霊会に保護を求め、孤児として幹部たちの寵愛を受けながら育つ。常に救霊会の中心部とつかず離れずの位置にいるのだが、幼少時に親を食べた彼は人間の浅ましい本性を知り、人間の美しさを認めえなくなっている。人間の美しさを称揚する救霊会の中心部にいて働きを期待され、彼もそれに応えようとするが、限界に突き当たる。

ネットの一部では、これはブラコン小説だとも評されている。この評も的を射ていて、結局はすべて身近な人への愛をいろいろな形で表しているのだ。宗教の教義や共産党革命にかかる思想的な描写には著者の知識が十分に発揮されていると同時に、インテリ独特の弱さや宗教人の強さも描かれている。冷戦当時に左翼インテリが主導する革命の危うさを描いた著者の感覚はどこで培われたのだろう。