年間11日、55時間しか働かないヒキガエル


奥野良之助(2006)『金沢城のヒキガエル 競争なき社会に生きる』平凡社

ストーブを囲んで雑談していた時、「先生、ヒキガエルを掘りにいきませんか」と言い出した学生がいた。(中略)学生どもは、私の指示を待たず、といって指示を待たれたら私のほうが困ったところだったが、本丸中に散会して雪を掘り始め、つぎつぎと越冬中のヒキガエルを掘り当てていった。私は、学生に呼ばれるままに走り回り、掘り出されたヒキガエルの計測や個体番号の確認に追われただけであった。このまま放っておくと学生どもは本丸十を掘り返してしまうにちがいない。適当なところで私は、教官の権限を発動して、発掘の中止を宣言した。(本書 p.82)

金沢城のヒキガエル 競争なき社会に生きる (平凡社ライブラリー (564))

ヒキガエルの生態に迫った名著である。本書の主張は著者の9年間、399回にものぼる調査に裏打ちされている。

人は生物を見ると厳しい生存競争の中、強者だけが生き延びると考えがちだ。ヒキガエルを見ているとその発想は根底から覆される。

およそ10年ほど生きる彼らは両生類だから冬眠する。暖かくなったら土から出てご飯を食べ、子孫を残す。そして夏になると暑さを避けるように冬眠ならぬ夏眠に入る。秋に少し起きて、また寒くなると冬眠するのだ。冬眠の仕方も雑で、溝の石の隙間にちゃんと入ればいいものを、奥まで入らず適当に入ったところで冬眠してしまう。なんて力の抜けた生き物だろう。

当初、魚を専門にしていた著者は保険(論文を書く)ために、勤務先の金沢大学が当時位置していた金沢城でヒキガエルを調査し始めた。すると次第にヒキガエルの姿に心惹かれる。だが虫嫌いだから決して解剖はしない。前足に4本、後ろ足に5本ある指を解剖ばさみでパチンパチンと切って標識にし、都合1526匹の行動を調べた。そして分かった。彼らは年間11日、55時間しか働かない。これは繁殖も食事も含めた時間だ。

オスよりメスの方が少ないため、自らの子孫を残せる可能性は低い。にもかかわらず、毎日繁殖に参加するオスは極めて少ない。なんてゆるい生き物なんだ。そんな「ゆるさ」があるからこそ、著者が見つけた3本足のハンディキャップヒキガエルも繁殖に成功したから、悪いことではない。

面白い研究成果を出すには時間がかかる。昨今の短期的な成果を求める風潮ではこんな研究を再び望むことは難しいだろう。確かになにの役にも立たないし、特許などのお金に結びつくことはないかも知れない。だけど読んだ人を勇気づけ、何よりも競争社会が適用されない生物が身近にいて、そんな彼らも立派に生き延びていることを知るだけで、今あくせく働き生き急いでいる人の生き方を振り返らせてくれる。これぞ研究の真骨頂だ。


生物の分類は科学を超えなきゃ成し得ない


池田清彦(1992)『分類という思想』新潮社

分類することは思想を語ることであり、歴史主義的な分類体系は、歴史主義者の思想にすぎない。生物の歴史を探る試みが立派な研究課題であることは認める。しかし、歴史で分類をしなければならないという思想はやはり本質的な意味で倒錯である他はない。(本書 p.144)

私が依拠する立場は極めて単純だ。分類はいずれにせよ、人間が行う営為の一つである、ということだ。すなわち、すべての分類は人為分類である。従って、すべての分類は本来的に恣意的なものである。(本書 p.214)

知的刺激に満ちた本だ。

分類が思想にすぎず、必ずしも我々の認識を反映させているとは限らないことを、生物の分類をもとに明らかにしている。

生物の分類の祖はアリストテレスだ。彼は歴史上初めて、動植物の分類を行った。続いて画期的な成果を上げたのが植物の分類の祖、リンネだ。彼の発明した二名法により、種や属といった階層が設定された。

そうした素朴な分類のうちはまだよかったのだが、生物学の研究が進むにつれて分類方法も複雑化してくる。ある者は形質的な特徴を元に、また別の者は進化の分岐を元に、生物の分類を試みた。

しかし、いずれも完璧な分類ではない。確かにDNAやミトコンドリアの親疎関係から「科学的」に分類をすることはできる。だけど我々の認識と合わない。カエルはイモリよりもドジョウと近い、といった結果が出てしまう。分類は我々の認識(コトバ)に合わせるために行うのに、認識と合わない分類に何の意味があるのか。

著者は我々の認識に合う分類を提案する。生物は動的平衡で時間とともに変化する(オタマジャクシは1ヶ月したらカエルになる)が、科学は変化しないもの(三角形は1か月後も三角形だ)を扱う。時間が作用する進化や分岐という概念を含んだ生物を、本来的に時間を語りえない科学を用いて分類する。不可能な命題に挑む著者が結論を出すところが本書の一番の見どころだ。