なぜ人は南に向かったか


岡谷公二(2007)『南海漂蕩-ミクロネシアに魅せられた土方久功・杉浦佐助・中島敦』冨山房インターナショナル

荒俣宏によると、加藤は、「魚類研究に熱中していた昭和天皇のために、パラオの熱帯性海水魚類十尾を生きたまま水槽にいれて空輸、ついに天皇の許に届けるという快挙(?)を達成した」由である。(本書 p.184)

久功は、南洋に居続けた場合の敦のあるべき自分の姿だった。

「……小さなリュックサックを背負って村はずれの道を歩いていくと、芋田に行くらしい母と娘が、椰子の葉で編んだバスケットを抱えて向うからやって来る。たちまち娘が大げさな表情で、パラオ語で話しかけてくる。wそして二言三言冗談を言って別れて行く。すると敦ちゃんが、君、いまのは何と言ったの、ときく。そしては、いいなあ、いいなあ、と言うのだった」(「敦ちゃん」)

と久功は書いている。(本書 p.195)

南へ行った日本の画家・文人たちの中で、久功、佐助を含め、日本の社会や文化のありようを激越なまでに批判した者はひとりもいない。たとえば、久功の南洋行の動機は、彼自身日記に記したように、寒さを嫌い、ゴーギャンの影響、考古学や民族学への関心、原始的なものへの好みの四つであって、そこには、表立った日本批判に類するようなものはなにもない。だから彼は、昭和十七年一月、中島敦とのパラオ本当めぐりから久し振りに戻ったコロールの町が兵隊たちで一杯なのを見て、敦とともに帰国することを躊躇なく決意するのであり、そして、自分をはずかしめた、という意識に悩むことなく、三十余年にわたる後半生を、東京郊外の一隅で、心静かに暮らすことができたのである。(本書 pp.27-28)

鹿島茂の『馬車が買いたい!』は、小説から当時のフランスの田舎に住んでいる若者たちがどうやってパリに行き、なぜパリに、何の目的で向かったのかを明らかにしている。

これを南洋でできないものか。すなわち、当時南洋を目指した日本人は何を考え、何の目的で向かったのか。土方久功をはじめとする芸術家のほか、最後までどうやらパラオになじめなかった中島敦、パラオ熱帯生物研究所の生物学者や南方の言語に興味を持っていた言語学者の泉井久之助など、何が彼らをして南方に向かわせたのか。それを明らかにしてみるのも面白いのではないかと考えていた。だが、動機が動機である。エピゴーネンにしかならないだろう。そう思っていた。

まさかそのアプローチがすでに、美術史の専門家によってなされているとは思いも知らなかった。何の気はなしに手に取った本に、なぜ土方をはじめとする芸術家が南に向かったか、ゴーギャンをはじめとするヨーロッパの芸術家たちとの違いは何か、彼らは南で何を見たのか。それを様々な資料を縦横無尽に用いて縦糸と横糸から全体像を紡ぎだしている。

一番の見どころは、パラオで大工をして生計を立て、のちに土方について独学で彫刻を学び、銀座での展覧会に際しては高村光太郎をして「恐るべき芸術的巨弾」といわしめた杉浦佐助のエピソードである。印刷だけされてほとんど頒布されなかった彼の自伝や地元の人々のエピソード、地元に残る彼の作品等を通しで彼の人生を描き出す過程には、著者の執念と愛を感じる。

南洋に向かった彼らの動機はさまざまで、また感じ方もさまざまであったが、当時のかの地においては土方氏を中心としていろんな人が交わる、サロンのような雰囲気があったのだろう。小さな社会だからこそあり得た話のように思えて、うらやましかった。

それにしても、荒俣さんはいろんなことに詳しいなあ、と感心した。