人民を扇動する北朝鮮文学の内情


金柱聖(2018)『跳べない蛙 北朝鮮「洗脳文学」の実体』双葉社

美人娘たちが手に持っていた大学ノートを差し出してきた。なんと、そこには『人間の証明』がびっしりと書き写されていた。(本書 p.229)

私はもうこれ以上、あの国に住む気にはなれなかった。一度見てしまった外の世界の誘惑に、勝てるはずなどない。(本書 p.260)

在日朝鮮人として生まれ、総連幹部の祖父を持つ著者が「故郷」である朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)に帰国し、文学者になった顛末とその裏事情を書いた本です。

北朝鮮への帰国船でついた人たちは、まず招待所で教育を受けます。一定期間の教育(と順応)を経て、各都市に割り振られます。みんな平壌を希望しますが、現実はそう甘くはありません。しかし総連幹部を祖父に持つ著者は幸いなことに平壌に住むことができました。しかし総連幹部は在日、日本の資本主義の影響を受けた、潜在的スパイとみなされ、割を食う場面も多くあります。

北朝鮮の文学には以下のジャンルがあります。

  1. 1号形象物
  2. 抗日パルチザン物
  3. 戦争物
  4. 歴史物
  5. 現実物
  6. 南朝鮮物
  7. 海外物

著者は在日を主人公とした文学、すなわち7番目のジャンルを担当していました。その他のジャンルを書くのは自由でしたが、金一族を題材にした1号形象物だけは限られたエリート作家にしか書くことが許されませんでした。

著者はエリート文学者の登竜門である金亨稷師範大学の作家養成班に入ろうとします。2年半に一度巡ってくるそのチャンスのため、朝鮮労働党員になり、編集者に賄賂を渡して文学雑誌に作品を掲載してもらい、文学賞まで獲得した結果、二度推薦されました。しかし、入学はかないませんでした。そこには在日という見えない天井がありました。

引用部分にある森村誠一『人間の証明』のエピソードは貴重です。100部図書といわれる作家たちだけが参考にできる外国文学の訳本です。それをまわし読みしている人たちがいること、地方の党幹部に貸したらその娘と友達が手書きで大学ノートに書き写していたエピソードが出てきます。

手書きで本を写すという中世の教会や南方熊楠を髣髴とさせる営みを、1990年代に北朝鮮のエスタブリッシュメントに近い上流階級の娘さんが行っていた。貴重な証言です。

もう一つ驚いたのは総連幹部だった祖父ですら、当時の北朝鮮の内情を知らなかったこと。どうせ日本円は使えなくなるからと日本で北朝鮮ウォンに両替するよう、帰国者に言いまわったところ、北朝鮮公式レートで両替するより日本円をそのまま持ち帰って外貨ショップや闇両替で使うほうが経済的だったのでした。