二人とも、ただものではあらない。


村上春樹、川上未映子(2017)『みみずくは黄昏に飛びたつ』新潮社

僕はただそれを「イデア」と名づけただけで、本当のイデアというか、プラトンのイデアとは無関係です。ただイデアという言葉を借りただけ。言葉の響きが好きだったから。だいたい騎士団長が「あたしはイデアだ」と自ら名乗っただけのことですよね。彼が本物のイデアかどうか、そんなことは誰にもわからない。(本書 p.155)

-やっぱりわたしなんかも文体でしたよね。『乳と卵』という小説にかんしても文体のことしか言われないぐらいの感じだった。
村上 あれ、文体のことしか言うことないよ。(本書 p.229)

 前回、村上春樹『騎士団長殺し』について私もレビューを書きました。長々と、イデアとメタファーの説明をつけて。

 だけどどうしたことでしょう、本書で筆者から、本当はイデアもメタファーも響きがいいだけで、通常使われている意味とは全く関係ないといわれるではありませんか! 私はてっきり巷で使われている意味で使われているのだと受け止めました。そして対談相手の川上も。村上の答えを聞いて「イデアっていったら、イデアでしょう。わたし、おさらいしてきたのに……」と嘆いています。その気持ち、よくわかります。

 こんなことが開陳されるインタビュー、最初の方は村上春樹の答えが少なく、川上未映子が話している場面が多いです。芥川賞作家とはいえ、昔から村上ファンの川上さん、空回りしてないかな。ちょっと空気の読めない人なのかな、と心配になるぐらい。だけど回を重ねることに二人が打ち解けていて、会話も滑らかに進みます。周到な準備のおかげでしょう。

 話は『騎士団長殺し』にとどまらず、過去の小説やほかの作品、小説そのものや書き方、女性観、死生観にまで及びます。フェミニストの川上はなぜ村上春樹の作品では女性が性的な役割を担わされているのか、と切り込みます。村上はあまり意識したことがなかった、と答えます。

 村上春樹は小説を一日10枚書く間、ほぼ無意識的に話を内面からすくい上げている印象があります。このシーンが何のメタファーかも考えず、物語の赴くままに。そして何度も校正をして仕上げます。きわめて個人的な作品ですが、それが世界的に支持されるのだから、人としての大事な共通項(川上は「地下二階」と表現しています)を描いているのでしょう。

 ただ、本人は安心していません。いつ本が売れなくなるか分からない。そうなったら青山にジャズバーでも開きたい、と自由に発言しています。それはそれで楽しそう。

 最後はお互い関西弁まで飛び出すほど盛り上がった対談、読んでいても楽しいです。惜しむらくは二人の対談の様子の写真が帯にしかないことです。もっと見たかったと思います。



騎士団長殺し-イデアとメタファーで世界を描き変える


村上春樹(2017)『騎士団長殺し』新潮社

「(前略)あたしはただのイデアだ。霊というものは基本的に神通自在なものであるが、あたしはそうじゃない。いろんな制限を受けて存在している」(本書第1部 p.352)

「どんなものごとにも明るい側面がある。どんなに暗くて厚い雲も、その裏側は銀色に輝いてる」(本書第2部 p.90)

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編
騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

 いつでも話題作になる村上春樹の最新作です。

 物語は肖像画家である主人公の男性が美大時代の友人から紹介された家で、その家の前の住人で友人の父でもある雨田具彦の絵「騎士団長殺し」を屋根裏で発見したことから始まります。ある日、午前2時、どこからともなく鈴の音が聞こえます。その音は家の敷地内にある祠の裏から聞こえ…。

 あとはいつものパターンです。男は穴に入りたがるし、男女はセックスするし、主人公は理屈では説明できないけどすべきことをしていきます。

 主人公の「私」はイデアとメタファーを手がかりに、目の前に立ちはだかる問題を解決しようと試みます。

 イデアとメタファーってなんでしょう?

 イデアは私たちが認識に使う枠です。プラトンの哲学でよく出てきます。たとえば、私たちはダックスフントを見ても、マルチーズを見ても、柴犬を見ても、彼らを「犬」と認識します。おそらく、ダックスフントとマルチーズと柴犬の間にある共通点を見つけて、彼らを「犬」と認識します。その共通点をイデアといいます。ダックスフントは犬のイデアを持っているから、犬と認識できるのです。一方、アライグマは犬のイデアを持っていないから、犬とは認識されません。犬のイデアは私たちの頭の中にありますし、実際の犬も持っているものでしょうが、犬のイデアそのものが目に見えるわけではありません。

 メタファーは隠喩です。「還暦は人生の夏だ」、「彼は糸の切れた凧だ」のような使い方をします。「○○のような」といい方をせずに表現する比喩です。

 よく考えると、現実のモノゴトはイデアのメタファーといえるかもしれません。マルチーズは犬のイデアのメタファーです。あるいは一連の出来事はいいこと/よくないことのメタファーかもしれません。

 では、主人公の「私」が描いていた肖像画は、イデアなのでしょうか。それともメタファーなのでしょうか。不思議な体験を経て、「私」の描く絵は一層深みを増しますが、また一方で自身への力不足も痛感しています。彼の描く肖像画はイデアでもあり、メタファーでもあるのでしょう。

 しかしそれは私たちも同じです。相手の考えていることを、メタファーを通じてイデアに肉薄する。あるいは私たちの考えであるイデアをメタファーを用いて伝えています。そうして人とのかかわり方や世界への向き合い方、あるいは世界そのものを変えていきます。

 なお、雨田具彦のモデルはおそらく、熊谷守一でしょう。「「気が散るから」という理由で文化勲章の受章は断ったが」(本書第1部 p.82)という記述があります。画家で文化勲章を断ったのは熊谷守一しかいません。仙人然とした雰囲気と大きな鼻が、なんとなく雨田具彦を彷彿とさせますね。