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レビュー 講談社ノンフィクション賞

無実の罪をかぶったまま満州に散った甘粕正彦

佐野眞一(2010)『甘粕正彦 乱心の曠野』新潮社

甘粕が「青年たちの娯楽は何ですか」と尋ねると、加藤完治の代理の者が「角力や柔道や剣道です」と答えた。すると甘粕はこれを否定して言下に言った。
「昼間農業をやって疲れた若者が、角力や柔道や剣道をやって何が娯楽になりますか。苦しい労働をした者には、楽しい遊びが娯楽になり、気分転換になるのです。だから世間では、碁や将棋や音楽、映画、演芸を娯楽というのです。人間の生活には楽しいものや美しいものがなければ長続きしません」(本書 pp.489-490)

大杉事件の真相は八十年以上秘匿された。それを思うとき、人を威圧して沈黙させる帝国の猛々しさと、事実を風化させ忘却させる歴史の残酷さを感じないわけにはいかない。(本書 pp.591)

甘粕正彦の生涯を追ったノンフィクションで、大杉事件の真相を解明したとして講談社ノンフィクション賞を受賞した。

大杉事件とは、アナーキストの大杉栄と内縁の妻伊藤野枝、甥の橘宗一(6歳)が関東大震災後の戒厳令が出ているさなかの東京で憲兵に連行され、そのまま殺された事件のことをいう。

当時、東京憲兵隊渋谷分隊長兼麹町分隊長であった甘粕正彦憲兵大尉が東京憲兵隊本部付(特高課)森慶次郎憲兵曹長と共謀して殺害したとされた。しかし、上官の命令でなければ聞かない軍隊のこと。なぜ直属の上司でない甘粕からの命令に森が従ったのかは謎だった。

更に謎は残る。3年弱の刑期を終えて出てきた甘粕を出迎えたのは憲兵2人。そのまま家に帰るでもなく、軍の金で山形の温泉地に行き保養している。それだけではない。その後は軍から美術・音楽等の研究のためという名目で、2年間のフランス行きを許された。甘粕を出国させるため、東京憲兵隊特高課の少佐が係争中の日本郵船に早く船を出すよう直談判までしている。軍はまるで甘粕を厄介払いさせるように、性急に国外に追い立てた。

著者は周辺の者の証言などをたどって、甘粕が大杉事件の犯人でなく、軍の上層部が指揮した可能性が極めて高いこと、甘粕はそれを分かっていながらスケープゴートになったことを探り当てる。まさにノンフィクションの真髄だ。

満州に行った甘粕の人脈がまたすごい。陸軍士官学校卒業なので軍人には東條英機を始めとした知り合いは多く、加えて政府に勤務したことから役人だった岸信介や石原莞爾とも知り合う。また皇帝溥儀から側近としておきたいと言われるほど人望もあつかった。理事長となった満洲映画協会には李香蘭(山口淑子)、森繁久彌といった俳優の他、赤川次郎の父親の赤川孝一や内田吐夢、そして意外なことにジャーナリストの大宅壮一もいた。こうした人脈が戦後、「紅いコーリャン」などを撮影した中国の張芸謀(チャン・イーモウ)に繋がるというから驚きだ。「東洋のマタハリ」川島芳子も出入りし、皇帝溥儀の通訳を務めていた中島敦の叔父である中島比多吉、檀ふみの父で作家の檀一雄、後に東大総長になる矢内原忠雄も甘粕と縁があった。満洲映画協会はまるで梁山泊の様相を呈していた。

いちばん興味深かったのは甘粕の奥深い人間性だ。すぐに癇癪を起こし、人を怒鳴り散らす一方、アフターケアも忘れない。クビを切った部下の再就職を世話する、関東軍から来た召集令状を突き返すなど、面倒見の良さがあった。公人としては軍隊出身者らしく時に厳しく、テキパキと実務をこなした一方、私人としては子煩悩であり、教養もあった。組織の罪を被り、出獄後も軍の特務機関のような仕事をしていた甘粕には、底光りする魅力があったようだ。憲兵隊という国家主義的な甘粕が、経営難の立て直しのためとはいえ満映という左翼の多くいる組織を率いたのをみても、懐の深さが窺える。

甘粕は会う人間に酔って、その面貌を変化させているわけではない。厄介なことに、試されているのは甘粕を見る側の教養であり見識なのである。(本書 p.485)

この一文が戦争という奥深い歴史の澱を内奥に秘めた甘粕の性質を表している。

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英語はブレッド、オランダ語はブロート。なぜ日本語では「パン」という?

舟田詠子(2013)『パンの文化史』講談社学術文庫

「パンは神が作り、パン屋は悪魔が作った」という言い回しがドイツにはある。悪魔がつくった職業とみなせるほど、パン屋はきつい仕事だと解釈するのがパン屋。悪魔がつくったと見なせるほど、パン屋は悪いやつらだと解釈するのが消費者である。

本書 pp.209-210

著者が「もとより通史ではない」(本書 p.7)、「パンを焼いた人間を軸に展開させた」(ibidem)と書いているとおり、人々がどのようにどのようなパンを食べて来たかをフィールドワークを含めて丹念に書いている。

著者の出発点はシンプルだ。日本では戦後、パン食が急速に普及した。しかしそれは人々の暮らしに根付いたパン食ではない。ただパン屋やメーカーが焼いたパンを買い、出来合いのものを家で少しのアレンジをして食べているにすぎない。欧米のように、または日本のコメのように日ごとに家で作って食べることもなければ、いろんなパンを食べているわけでもない。日本全国どこでもたいてい白い生地で外側が茶色く焼けた、あのパンを食べている。

しかしパン発祥の地である「肥沃な三日月地帯」や欧米では事情が違う。地域や、かつては村ごとに取れる麦の種類や製法の違いから、違うパンを作って食べていた。ナンやピタ、トルティーヤ、フォカッチャ、クレープなど、家や村単位でパン窯を持って焼いて食べていた。人々の暮らしに根付いたパンがあった。そして今でもほそぼそと続いている。

施しのパンという習慣も根強い。修道院はかつて宿屋を兼ねていたから、裕福な人が来たら多くの宿泊費を払ってもらい、そのお金でパンを焼き、周辺の貧しい人たちに配っていた。それとは別に、万霊節(米国で言うハロウィン)に盛大にパンを焼いて死者への追悼を行い、そのパンは貧しい人たちに配られた。欧米の寄附文化の根底にはパンがあったのだ。著者は長年のフィールドワークで得た実例を示し、奥深いパンの世界を一つ一つ開陳していく。パンの持つ、味わい以上の深みを思い知る。

さて冒頭の回答。ザビエルと一緒にやってきたポルトガル語の「パン」が日本語に取り入れられた。しかしそれはキリスト教と一緒に入ってきたものの宿命、鎖国やキリシタン弾圧の下でパンも日本から姿を消した。元に18世紀の蘭学者の文書にはパンというものがオランダ語でブロフトと呼ばれ、小麦で作っているらしいことが書かれてある。しかし実際どんなものかは分かっていなかった。長崎のごく一部の人以外は言葉は知っていてもモノを知らなかったのだ。逆に言うとそんな状況下でも数百年、「パン」という語は生き延びで現代でも使われている。音の強さを感じるエピソードだ。

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同時通訳はソビエト生まれ

米原万里(2003)『ガセネッタ&シモネッタ』文藝春秋

「あーら、米原さんて、最近はもっぱら通訳業の産業廃棄物をチョコチョコッとリサイクルして出版部門へ流し、甘い汁を吸っているっていう評判だわよ」
とシモネッタとガセネッタに言われてしまった。(本書 p.107)

日本語の場合を例に取るならば、万葉集から源氏、大宝律令にいたるまで翻訳してしまっていたのだから、その奥行きたるや目も眩むほどで、イデオロギーの流布やKGBによる盗聴などというプラグマチズム(?)をはるかに超えていた。(本書 p.115)

ロシア語の同時通訳者にして作家であった米原万里のエッセイ集だ。

ガセネッタ&シモネッタという題名から、ガセネタとシモネタばかり書かれているのかと思ったらそうではない。女性にプレゼントできるぐらい上品な(知的な?)内容のエッセイがメインである。

同時通訳の誕生がソ連にあったことは、本書を読んで初めて知った。同時通訳の装置の開発は1926年、IBMによるものだった。当時の国際機関は国際連盟とコミンテルンしかなく、前者は英語と仏語がメインだったのに対し、後者は万国の労働者に団結を呼びかけていただけあって、マルチリンガルな組織だった。東京裁判にやってきた同時通訳陣にもソ連チームが入っていた。コミンテルン解散後のソ連でもその遺伝子は脈々と受け継がれ、BBCが56言語、NHKが22言語で放送されていたのにモスクワ放送は最盛期に85言語で放送していた。これは利益度外視の計画経済によるものか、ソ連の多民族に対する興味によるものかは定かではないが、同時通訳者の育成と少数言語の研究には大いに役だったことは確実だ。

本書で一つの山場となっているのはフィネガンズ・ウェイクを訳した英文学者、柳瀬尚紀との対談だ。二人とも市場経済に流れないことの大切さを共通認識としてもっている。市場経済を意識しすぎていたらフィネガンズ・ウェイクなんて訳せないし、テレビのようにバカになるものばかりが流通する(易きに流れる)。その点、ソ連は計画経済だった分、我々とは才能に対する考え方が違った。音楽でもバレエでも、才能があったらそれを金儲けに利用しようとはしない。才能がある子はただその才能を美的な高みへと登らせるために磨かせるのだ。

世界第3位の経済大国の日本ですら、市場経済を無視した才能の育成はかなり厳しい。となると、社会主義で計画経済(のはず)で世界第二位の経済大国である中国は人口も多いし、条件は揃っている。しかし現状は市場経済に振り回されている。世界はいま、才能の貧しい時代に陥っているのかもしれない。