労働理論の総まとめ


今村仁司(1981)『労働のオントロギーフランス現代思想の底流』勁草書房

認識といえども人間が社会関係の中でおこなうひとつの世界獲得形式であるというのがマルクスの基本的な立場である。いいかえれば、認識は人間が世界とかかわる社会活動の一領域である以上、認識活動は社会的実践過程の一局面でしかない。社会的行為の基礎概念をわれわれは労働とよぶ。したがって認識は基礎的労働を構成する一モメントとなる。(本書 p.24)

多くの唯物論者たちは、「生産」活動を唯物論的世界観の基礎だと主張してきたが、実際には、かれらはイダリスムの基礎概念を称揚してきたにすぎない。「生産」(超越、対象化、客観化……)こそイデアリスムのエレメントであるから、観念論的世界観の根拠づけを「生産」に求めるイデアリスト(例えばヘーゲル)の主張は、きわめて正当である。唯物論者たちは、観念論者たちと「生産」概念の争奪戦をくりかえしてきたわけであるが、原理的にいってその勝負の結末は眼に見えている。言うまでもなく、唯物論者たちの負けだ。(本書 p.219)

今村仁司の訃報では、代表的な著書として挙げられていた『労働のオントロギー』。僕は『暴力のオントロギー』や『儀礼のオントロギー』などは読んだものの、本書は読んだことがなかった。いや、読んだことがなかったのではなくて、一度読もうとして、最初のアルチュセールのところで挫折したのだ。文庫で出た『アルチュセール全哲学』を上滑りながら読み終え、数年のスパンを開けて本書をひも解いた。働いている人には読んでもらいたい本だ。

本書の構成は、最初にマルクスの労働のフランスでの研究概況を見るため、ルイ・アルチュセール、コルネリウス・カストリアディス、ミシェル・アンリの思想について概観し、その問題点を克服していく。それで三章を使い、第四章からはそれらの批判を加え、問題点の克服を試みる。社会をもろもろの生産活動としてみる(本書 p.201)アルチュセール、線形の変化をする「生産」と非線形の変化をする「創造」の一半を明らかにしたカストリアディス、超越の根拠としてライプニッツのモナド的な生を持ってきたが、モナドゆえに社会的関係をとりこぼしかけているアンリ。彼らの理論を継承しつつ、どうくみ上げていくかを今村は課題としているが、中でもアンリの非対象化の導入を称賛している。

すなわち、フーリエの言うように労働には「いやな労働」(travail repugnant, industrie repugnante)と「楽しい労働」(travail atttrayant, industrie attractive)があり、前者は分業を行う対象化活動だが、後者は分業を廃棄した非対象化活動である。すなわち「異質性を同質化する活動ではなく、異質な諸活動を異質なままに実現する根拠としての活動」(本書 p.258)である。そこではアソシアシオンという社会的つながりが求められる。すなわち、生産されるモノ(対象)ではなく、つながるコトが第一となり、それこそが快の源泉となるのである。

今村仁司も翻訳にかかわった『ドイツ・イデオロギー(抄訳)』で妙に印象に残った「朝には狩りをし、午すぎには魚をとり、夕べには家畜を飼い、食後には批判をする」という「悪名高い箇所」(本書 p.249)も本書では引用がされ、そこまで批判するものではない、という見方が呈示されている。このころから、今村はブレていない。

哲学もしなければ経済学者でもない我々が本書を読んで身につけるべきは、「いやな労働」と「楽しい労働」の比率をいかに変えていくかということ。前者の量を減らすのは努力だけでは限界がある。それでは後者を増やすことを考えればいいのではないか。人間とは周りとかかわって生きていく生物なのだから、そのかかわりを大事にして、分業を廃棄してその人らしさを発揮(全体的個人の表出)し、生きていくように、すなわちプラスを増やしてマイナスを凌駕していくようにするのも一つではないか。

言うことはもっともだけど、実践は難しいよなあ、と思う。難しいといって匙を投げずに努力しよう。


聖と俗に振れる宗教


ヒューム, デイヴィッド、福鎌忠恕ほか訳(1992)[1972]『宗教の自然史』法政大学出版局

人々の誇張された賛辞や追従が、それでもなおこれらの諸力についての人々の観念を膨張させる。そして彼らの神々を完全性の最極限まで高揚させて、ついに統一と無限、単一性と精神性の属性を産み出す。このような繊細な観念は俗衆の理解にそもそも対応していないので本来の純粋性に長い間とどまってはいない。そして人類とその至高神の間に介在する下級の介在者ないし従属的な代理者の概念によって支持されることを要求する。これらの半神半人ないし中間的存在は人間本性により多くあずかり、またわれわれにいっそう親密なので、敬虔の主要な対象となり、小心で貧窮した人類の熱烈な祈願と賛辞によって、以前に追放されてしまっていた偶像崇拝教をしだいに呼び戻す。(本書 pp.53-54)

来世の信仰により顕示された快適な視野は、忘我的で歓喜にあふれている。しかしそれは、宗教の恐怖の出現とともになんとすばやく消滅することであろう。この恐怖は人間精神をより強固に、より永続的に占拠するのである。(本書 p.105)

本書は佐藤優がアーネスト・ゲリナーの『イスラム社会』を絶賛する中で言及した、ヒュームの振り子理論が掲載されている本である。

要は一神教は素晴らしい、多神教はまだまだレベルの低い連中が信じているから、相手にしないでいい。そもそも多神教って、神々は一体だれが作ったのさ?ってことになるでしょ。というお話。そのため、多神教の本場、ギリシャのお話がいっぱい出てくる。一神教の立場からしたら論理的に多神教を受け入れないのもわかるし、ギリシャの放恣な神様と日頃の倫理を比べたらぜんぜん違うから、乗り越えるべき矛盾があるのもわかる。ただ、そこに21世紀の、そしてキリスト教徒でない者が読むべき現代性があるかどうかは微妙なところ。

肝心の振り子理論にしても、ゲリナーが書いてある通り、まずは身近なところに神々を見つけて、人々は多神教、偶像崇拝に走る。そこから、それらの神々や偶像の創造者に心をとめるようになり、すべてを支配するただ1つの神を信じるようになる。そうして洗練された一神教が出来上がるが、あまりにも洗練されすぎたために多くの大衆はついていけず、身近な神の代理人を作り出す。そしたら神の代理人がまた直接信仰を集めて多神教になり…の繰り返しというお話。

この振り子理論、面白いんだけど、結局2次元的な往復でしかない。ヘーゲルのいう弁証法は3次元的な螺旋のはずで、そのほうが理論としては面白い。しかしこの場合、一神教を克服したうえで多神教になるのかと思ったら、前提が蒙昧な俗衆なので、一神教を信じていたころのことを忘却して、また多神教、偶像崇拝を始めて元の木阿弥に戻るとみなしているんだろうから、たぶん振り子でいいんだろうと思う。

でもやっぱり、理論としてはヘーゲル的弁証法の3次元(螺旋)のほうが面白いし、現代性があると思う。


暇がなくても読書をする方法


鹿島茂(1993)『暇がないから読書ができる』文藝春秋

大学の授業や雑用のほかに、新聞・雑誌に雑文を月に百枚以上は書いているので暇はまったくないのだが、なぜか、読書量は、書評のためのものを除いたとしても、急激に増加しているのである。だいたい最低でも、月に三十冊くらいは読む。(本書 pp.179-180)

これまた忙しかったせいもあり、鹿島茂の書評でも読んで気を紛らわせようとしたところから、本書を読み始めた。いつも書評を読むと思うのだけど、世の中には僕の知らない本はもちろんいっぱいあって、その中の相当数がこれまた面白そうなのに、なぜか寿命は長くないということ。

本書はやっぱり上手に面白そうな本を紹介しているのだけど、あとの方になるとほめてばかりで、多少はけなさないとこの人はなんでもほめるんじゃないかと思えてきてしまう。だから暇がないとか文句を言いつつも本を読んでは感想を書いている前半の方に好感をもった。

本書で紹介されている本でも、知らない本ばかり。でも確かに本屋に行ってみればおいてある本もまだまだ多い。サイパンに行くときにも本を持って行ってちゃんと読んでいたり、フランスの古本屋めぐりをするっていうのに十冊も本を持っていったりと(これは半ば仕事のため)、本当にすごい人だと思う。本は重いので、はっきり言って旅行の邪魔なのだ。しかし本がないと移動中にすることがなくなってしまう。このジレンマを解決する方法は、ぼくはまだ見つけていない。

逆に言うと本を読むしかないわけで、台湾のように人懐っこい人たちがいる国では、列車や飛行機の中で隣の人と話すこともあるけれど、アメリカの国内線なんかは機内サービスもないわフライト時間は長いわで、本当に何もすることがない。ネットもできないしパソコンを開くのも大仰だ。そう、本を読むしかないのだ。

そのためには、書評でも読んで読みたい本をピックアップするというのも、ひとつの手なのだ。


世界はドーダで満ちている!


鹿島茂(2007)『ドーダの近代史』朝日新聞社

ドーダ学というのは、人間の会話や仕草、あるいは衣服や持ち物など、ようするに人間の行うコミュニケーションのほとんどは、「ドーダ、おれ(わたし)はすごいだろう、ドーダ、マイッタか?」という自慢や自己愛の表現であるという観点に立ち、ここから社会のあらゆる事象を分析していこうとする学問である。(本書 p.5)

普通の基準からすると、こうした人間はありえないような気がする。だが、私は語学教師の端くれなので知っている。兆民のような純粋の語学バカ、シニフィアン人間は実在すると。語学と言うのは、その才能がある人間にとって、生きていくことの支え、おのれの自尊心をくすぐる立派なドーダ・ポイントともなりうるのである。(本書 p.239)

最近仕事が忙しかったのもあって、すいすい読める本を探していた。たまたま、千夜千冊で紹介されていたのを読んで、これを読もうと思った。そこに書いてある通り「ドーダの超論理というのは、べつだん難しいものではない。学問でもないし、高遠なものでもない」のである。ただ分厚いので読みごたえはあるし、鹿島茂のこと、やっぱり読ませる。

本書は幕末の時代に跋扈したドーダさんたち、「マイッタか!」と相手に自慢したいがために、頑張ったり頑張らなかったり斜に構えたり死に物狂いになったりする人たちの系譜を紹介している。

僕は松岡正剛とは逆で、最初のころの陽ドーダよりも後半の陰ドーダ、内ドーダに興味を持った。中江兆民をシニフィアンの人(書いてあることよりも、外国語の響きにひかれて語学の上達を一身に願った人)と述べているあたり、語学者として大変共感を覚えた。そこがシニフィエの人へ転換したかどうかの真実性についてはともかくとして。基本的に三つ子の魂百までなので、シニフィアンの人はシニフィエへの転向を目指したとしても、やっぱり限界があるし、シニフィアンへの思いはそう簡単に断ち切れるものではないと思うから、ここは保留にしている。

しかし、兆民とルソーの思想的バックグラウンドを対比しだすあたりからは、鹿島茂らしい細かさを持ち出して来て、さすがだなあと思わせた。

最近の文脈に照らしてみると、絶望の国でも幸せに生きる若者たちは陰ドーダなんだろう。すなわちa×b=1の図式に於いて、a=内面、b=外見として、外見にお金をかけないし興味もないフリをして、bを減らした結果、自動的にaが上がる。すなわち「そんなことより内面さ」と斜に構える風潮、これが今はやりの内ドーダである。もはや消費を知らない世代な上に、将来に不安だらけだから仕方ない。

世の中にはいろんなドーダがあって、結局人はドーダに籠絡されつつ生きるしかない。では今の時代、どうやって幸せに生きるのか。本書に少し述べられていた、人のいいボンクラを上に据えて、徳のない秀才を輔弼に据える、というのが一つの可能性で或る気がする。