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レビュー

環境が文明に影響を与える?

梅棹忠夫(1967)『文明の生態史観』三陽社

マイクロ・ウェーブ網ができようというのに、市内電話の発達のわるさはどうだ。鉄道はあっても、自動車道路はこれでも道か。化学工業、造船、光学機械はたいしたものでも、工作機械はだめ。数百の大学と、わずかな研究費。たしかにこういうデコボコはあるにしても、全体としてみれば、やはり日本人の生活様式は、高度の文明生活であることは、うたがいをいれない。(本書 p.81)

第二地域は、将来四つの巨大なブロックの併立状態にはいる可能性がかなりおおいとおもう。中国ブロック、ソ連ブロック、インド・ブロック、イスラム・ブロックである。それぞれは、たしかに帝国ではない。(中略)昔の帝国の「亡霊」でありえないだろうか。(本書 p.100)

昨年亡くなった梅棹忠夫の代表作である本書は、一大センセーションを巻き起こした。

文明論という、現在の民族学でもあまり扱われていない話で、戦後20年を経ていない時期に行った調査旅行からこのような着想を得たのは、筆者の創造性の強さのおかげだろう。あるいは、生物学というバックグラウンドが、その他の民族学者と違った見方を提供したのかもしれない。

本論の概要としては、ユーラシア大陸の両端に先進国があり(ヨーロッパと日本:第一世界)、その間に栄華を極めた帝国であった過去を持つ発展途上国(第二世界)があり、後者は中間の乾燥地帯と、それと直行する軸で4つの地域に分け、それぞれロシア地域、中国地域、インド地域、イスラム地域という見方をする。四大文明も帝国もその第二世界から生まれたのに、なぜか没落して第一世界に文明を伝播したのに、それらの植民地になった。これはおそらく、大陸という生活環境と関わりがあるのではないか、と梅棹は着想を広げていく。

その後の比較宗教論の話でも、宗教の伝播にはやはり生態的な要素があると共に、ウイルスとのアナロジーを用いて、その広がりを検討している。すなわち、地域病のようなエンデミックなものと、流行病のようなエピデミックのようなものがあるのではないか、と。

そこで思い当たったのが、方言周圏論だ。日本では柳田國男が『蝸牛考』で述べた、中央の方言が、まるで波紋を描くように時間差と共に地方へと広がっていくという話だが、文明も宗教も、同様のことが言えるのではないだろうか。

本書では文明や宗教とは何かとか、アフリカや中南米を捨象していること、東南アジアも一部当てはまらないことや、中国もあの巨大な国をひとつとして扱っていいのかといったような、荒削り故の要検討箇所もあるのは事実。しかし、いろんな見方を持つことの重要さは勉強になる。これが学際性の成果というものだろう。

その後、ソ連は崩壊して中国も市場経済を導入した。インドは情報産業で急成長を続けているし、アラブでもジャスミン革命以降、変化が起こっている。そんな今、本書のような発想は出るのだろうか。あるいは今の日本の若い人たちがそれらの諸国に行って、「日本は特殊な国だ」という気持ちを持つのだろうか。