柔軟な語られ方をする民族、ジェンダー


速水洋子(2009)『差異とつながりの民族誌 北タイ山地カレン社会の民族とジェンダー』世界思想社

人の命は、この世とあの世とを行き来すると考え、この世での死は、あの世での新たな誕生を意味し、逆にこの世での誕生はあの世では死を意味する。乳幼児の場合、この世だけではなく、あの世にも両親がおり、あの世から子供を呼び続けるのだと言う。(本書 p.173)

差異は権力関係の中から構築され、またその基盤ともなるが、その一方でつながり、関係性を築く契機でもある。(本書 p.284)

グローバル化へ向かう中で、タイの女性に向けられた他者化のまなざしが、内なる他者に対して繰り返されている。すなわち、先進国からタイへ向けられるまなざしの彼方に山地民族がいる。(本書 p.284)

本書は題名のとおり、タイ北部のカレン族の村をフィールドとした民族誌である。民族という枠と、ジェンダー/セクシュアリティという軸で、人たちの生き方を分析している。

特に結婚などの儀礼を中心に、男女がどのような役割を担い、その儀礼をどう行っていくか。そしてこと結婚に関しては、民族の違いがどのように語られるか。また子供たちがどうやって大人の男女に成長していき、大人がどう自らの子供時代を振り返るか、という点からカレンの人たちの民族やジェンダー/セクシュアリティとのつきあい方について迫っている。

現在、民族という概念の再検討が問題になっている中で、彼らの語りに注目して民族がどう語られ、どう扱われるかを見ている点が、興味深かった。結婚については、カレンはカレンの、他の民族は他の民族のやり方があるので、異民族と結婚したカレンが結婚する際には、本来はカレンの結婚式を行うべきだが、それが「花婿が北タイ人だから」という理由である程度、妥協される。その北タイ人でさえ、「あの人はカレンの村出身だし、カレンだから」という理由で結婚が認められている。

そうやって民族が語られ、民族の文脈との関わりでジェンダーが語られ、儀礼のやり方が決められる。これは非常にダイナミックでおもしろい。

松村(2008)は全く違う分野の(といっても同じ文化人類学だが)民族誌だが、そこでも様々な参照枠をその都度その都度参照し、土地や商いをやっているエチオピアの人々の例が出されている。近代科学の公準の一つである経済性の観点から見たら、いくつもの参照枠があるのは科学的ではない。だけど、おそらく一つの参照枠を使い続けるといつか破綻し、その破綻が集団に危機をもたらすと言うことをわかっているからこそ、様々な土地で未だにいくつもの参照枠を使うという事例が残っているのだと思う。

こうした「参照枠のブリコラージュ」は本当に興味深い。

本書を読んで、つい20~30年前までタイにも「日本との距離を想像することも難しかった」(本書 p.309)場所があったことも初めて知った。


夢見の訓練を通して全てを悟る


カスタネダ, カルロス 青木保監修・名谷一郎訳(1993)『未知の次元-呪術師ドン・ファンとの対話-』講談社

 もうすっかりメスカリトの話は出てこなくなってしまった。カスタネダシリーズの第5弾。

 本書でドン・ファンは訓練の一端として、カスタネダに夢見の技術を教える。それはたまに手を見つめる、という訓練だった。手をみて、また別の対象をみて、それから目をまた手に戻す。それを繰り返す訓練をしていた。 これもカスタネダ関連の書籍ではよく言及される話なので、興味深かった。
 あとがきで青木保(文化庁長官)もすこし言及しているように、これはどちらかというと最初のフィールドワークっぽい作品から、明らかに文学っぽい作品へとシフトしている。そして、どうも真実味はないらしい。ということまで明らかにされている。

 だとしても、本書は読むに値する。なぜなら、ここですべての謎がわかるからだ。これまでの訓練の話も、師匠と恩人の話も、そして航空会社の支店に入ったらなぜか市場に出ていたというのも、すべてが一本の線で結ばれる。

 その答えはトナールとナワールにある。ドン・ファンにとっては世界はトナール(理性)の島であり、その島の配置を換えることが師の役割だという。ナワールはトナールの周りに控えているもので、これが理性以外の世界にあたる。カスタネダはずっとトナールの世界に籠絡され続けていたが、これまでの14年間に及ぶ修行で、ようやくトナールとナワールの両方を扱うことができた。

 ナワールの世界は楽しく、戻って来たくなくなるかもしれない。そこで戻ってくるにせよ、戻らないにせよ、それは戦士の選択である。とドン・ファンはいう。戻ってこれなかったら、もうそれはこの世では死んだことになる。彼がいつも死ぬ覚悟で臨めというのは、ここでも現れている。

 最後、カスタネダはナワールの世界に旅立つのだが、戻ってきたかどうか、その行方は杳としてしれない。


呪術師になった後の世界


カスタネダ、カルロス 真崎義博訳(1974)『呪術師に成る-イクストランへの旅-』二見書房

「それがどんな決断かなんてことは問題じゃない」彼が言った。「どんなことだってほかのことより重大だとか、そうでないとかいうことはないんだからな。わからんのか? 死が狩人であるような世界では、決断に大小なぞないんだ。避けられない死の面前でする決断しかないんだよ」(p.74)

死というものを意識して、人生をどう生きるか。これがドン・ファンのいう戦士の生き方だ。つい人生が永遠であると勘違いしそうな我々だが、戦士は一瞬一瞬に命をかけて生きる。

本書はカスタネダシリーズの第3弾。主に「世界を止める」ということについて話が広げられていく。ここで言われている「世界を止める」というのは、いつもと違った見方をし始めたら、それを無理矢理理性で理解しようとせずに、そのままの世界を受け止め続ける、という意味らしい。

本書では、真っ暗な中を歩く(走る)方法として、中沢新一の『チベットのモーツァルト』に出てきた風の行者の話とそっくりな「力の足どり」というものが出てきた。これは非常に興味深い。人間の身体のふしぎさを感じる話だと思う。

そうして、ドン・ファンの指導によってどんどん新たな身体の地平を切り開いていくカスタネダの成長がおもしろい。