呪術師への第一歩


カルロス, カスタネダ、真崎義博訳(1972)『呪術師と私 -ドンファンの教え-』二見書房

特に学ぶべきことは、二つの世界の裂け目までどうやって行き、どうやってもう一つの世界に入るかってことだ。(p.220)

途方もない恐怖が冷静な意識に与えた影響は、日常生活での現実性が絶対的な現実であるという確信や、日常的現実において、漠然と自己に合意を与えうるという確信をくずしてしまうような独特な特質をもっていた。(p.291)

80年代後半あたりによく話題になっていた(らしい)本。中沢新一の『チベットのモーツァルト』や、真木悠介の『気流の鳴る音』にもこの人への言及が出ている。当時はかなりセンセーショナルな本だったんだろう。(蛇足ではあるが、中沢と真木のことについては西部邁『学者 この喜劇的なるもの』にかかれてしまっている)

本書はペヨーテといわれる幻覚性キノコについて、興味本位でメキシコのインディアンに聞いてみたことからすべてが始まる。ペヨーテについてはこんなに知っているんだ、と話かけて相手の興味をそそろうとした主人公(カスタネダ)だが、師となるインディアン(ドンファン)は素っ気ない。いつかうちに来たらいい、と誘われてしばらくの後に家を訪ねたことから、修行が始まる。

カスタネダはなぜペヨーテに興味を持ったのかわからない。ある種の麻薬の代替品として興味を持ったのか。あるいは呪術に興味があったのか。

ドンファンはカスタネダにかなり大変な修行をさせる。カスタネダは音を上げそうになりながらも、それについていく。その様子から見て、カスタネダは興味本位でペヨーテに近づいたのではないか。それがいつの間にか、ペヨーテによって人生を変えられてしまった。ミイラ取りがミイラになるように。

ここでは最初の修行を取り上げただけで、先は続編へと続く。

これまで20年以上浸ってきた自らの世界をはがして、新しい世界を受け入れる。これがカスタネダに科せられた訓練だ。

おそらく本書の一番の見所は空を飛ぶところだろう。カスタネダ自身、空を飛んだ。カスタネダ自身も感覚として空を飛んでいたのはわかっている。そのとき、外部から見ていたドンファンには自分の肉体がどうなっていたか、教えてくれとせがむ。もし友達が見ていたら、カスタネダが飛んだというだろうか。そういう質問をしてドンファンに迫る。

「いや僕の言ってるのはね、あんたとぼくが鳥を見てそれが飛んでいればぼくらはそれが飛んでいることに同意するだろう。だけど、僕の友達二人が、夕べみたいにぼくの飛んでいるところを見て、ぼくが飛んでいることに同意するかしらっていうことなんだ。」「そう、同意するだろうな。お前が鳥を飛ぶことを認めるのは、それが飛んでいるのを見たことがあるからだ。鳥の場合なら飛ぶことはあたりまえのことだ。だがお前は鳥が他のことをするのは認めないだろう、それはお前が鳥がそういうことをするのを見たことがないからだ。お前の友達もデビルズ・ウィードを使って人間が飛ぶってことを知っていれば、同意するだろうよ」(p.153)

結局、ドンファンはカスタネダに、これまで身にまとい続けてきた考え方を捨てて、何にも縛られない状態でものを見なさい、といっているのだと思う。鳥と全く同じ意味で、地表から離れて空を飛んでいたかどうか、というと確かではないが、鳥が「飛んでいること」を知覚するように自ら「飛んでいること」を知覚したから飛んでいたんだよ、ということを言っているように思う。大事なのは肉体が地表面から離れたかどうかではなく、「飛ぶ」経験をしたかどうか、「飛べる」かどうかにあるのだと思った。

こういう考え方は禅のようなものの見方に通じると思う。井筒俊彦が言っていた西洋哲学に対置するという意味での精神的な東洋に息づく東洋哲学と言えるのかもしれない。読者にとってありがたいのは、カスタネダが「西洋の古い存在論」に籠絡されていて、そこからドンファンに質問をするという点にあると思う。我々多くの国の人々はそういう考え方になれてしまっているので、その思いを代弁するカスタネダの質問は非常にわかりやすい。それに反して、ドンファンの答えはまるで禅問答に写る。でも、ドンファンはカスタネダと向き合っている。