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これで分かる『論理哲学論考』

ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン 著/木村洋平 訳・注解(2010)『『論理哲学論考』対訳・注解書』 社会評論社

注 4.114 『論考』の哲学は、「思考の空間」を「言語の空間」に置き換えて、そこで、有意味な命題と無意味な命題の間に境界線を引くことによって、施行できる領域を確定する。
(本書 p.135)

7 語りえないことについて人は沈黙する。
7 Wovon man nicht sprechen kann, darueber muss man schweigen.
(本書 pp.358-360)

この訳者は1983年生で、本書を出したのが27歳のとき、さらにこれより前に訳本を出しているから、もっと若くデビューしたことになる。

ドイツ語と日本語の対訳なので、日本語で意味の取りづらい箇所があれば、ドイツ語で何となく大意をつかんで分かった気になることも可能である。

また、左ページにある対訳に対応する形で、右ページには注解が入る場合には入る。

本書の成果の一つは、言語で表現できる境界を確定させたことである。すなわち、言語に表現できるものはともかく、言語で表現できないものについては沈黙せざるを得ないのだ。

それは例えば「AはBよりCだ」という形式を示すことは出来ても、その意味が述べられないような事態が該当する。(2.172)

例えば楕円を写し取るのに真四角の桝目で観測するか、正三角形の升目で観測するかで、元となった楕円は同じなのに、写し取られた形が変わる。そうした形については示せるものの、語り得ない。

ヴィトゲンシュタインは自分の構築した体系のなかでは完全に透徹した論理を貫いている。本書は短いし、与えたインパクトは大きいし、それにドイツ語だといまやProject Gutenbergで無料で読める。そういう意味では読んでおいて損はない。

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宗教の栄華と退潮を見る

アーネスト・ゲルナー著/宮治美江子, 堀内正樹, 田中哲也訳(1991)『イスラム社会』紀伊國屋書店

急速な職業移動と技術革新が特殊な諸共同体の平和的共存を困難または不可能とした近代的状況下では、これらの共同体のそれぞれが自分自身の国家を獲得または創設しようと試みる。言い換えれば、民族主義が支配的になる。(常軌を逸した悲劇的なケースであるレバノンにおいてのみ、諸共同体は不安定な力の均衡によってどの共同体にも属していない政治体制の下で共存し続けることを強いられている。(後略))(本書 p.140)

カダフィによるスンナ(筆者註:コーランとは対照的に、法典化された伝承)の停止や削減はウラマーの地位と権威を大いに減少させ、またある意味ではそれはウラマー階級の解職であった。(中略)日々のスンニー主義は、その秩序や冷静さ、それを優先的に受け入れてくれる態度がある時、それを人民のアヘンと呼ぶことはほとんどできない。すなわちそれは市民たちを守る市民憲章に非常に近いものであり、そこではウラマーたちはその法委員会のような存在であった。しかしカダフィの極端な厳格主義は市民からそうした防衛手段を奪った。(本書 p.149)

だからどの部族もムスリムとしての立場を示す必要があるし、いかなる場合にもそれを示したいと望むわけである。ところが彼らはコーランに関する学識でそれを示すことはできない。文盲だから。(本書 p.264)

佐藤優をして「獄中で読んだ学術書の中でそりが合うのはアーネスト・ゲルナーだけだった。(中略)マグレブのムスリム社会をイブン・ハルドゥーン[1332-1406]の交代史観とヒューム[1711-76]の「振り子理論」を用いて見事に分析している。この方法論も極めてユニークで、まさに自分の頭で考えている」(佐藤優(2010)『獄中記』 岩波書店. p.434)と言わしめた。

僕は仕事でムスリムと関わるので読んだ。しかしこれまで行ったことがあるイスラム圏も、仕事で関わりのある国、すなわちマレーシアだけだ。この本の射程は訳者あとがきに書いてあるとおり、オスマントルコには適用しづらいものの、一概にマグレブ(地中海沿岸)じゃないからといって適用できないと決めつけるのは性急らしい。ただ、東南アジアでは合わないのではないか。

基本的な枠組みとしては、マグレブを例にとったイスラム社会においては、都会の定住民と田舎の遊牧民に分けられ、前者は文字を読むことができて聖天に直接アクセスすることができるのに対し、後者は文盲で聖典へのアクセスは仲介者を必要とする。そして前者は聖典の読みを研究するウラマーと遊牧民の攻撃から守ってくれる政府を必要とし、後者は仲介者としてのスーフィーがいて別途クランの長がいればいいだけの組織で、特段政府のようなものを必要としない。

こうした二項対立的な構図は、おそらくは西はマグレブ地方から、東はトライバルエリアのあるパキスタンまでのものだろう。スリランカやインドネシア、マレーシアといった国々では該当しないのではないだろうか。

イブン・ハルドゥーンの社会学とヒュームの振り子理論、それに加えてケインズやエドマンド・リーチといった大家の理論を縦横無尽に使いこなしてイスラム社会を分析するアーネスト・ゲルナーの頭のキレは、まさに快刀乱麻を断つ具合だ。原著書初出年が1981年と30年前、もちろん執筆時に使ったデータはそれ以前のものだから、アラブの春のジャスミン革命でチュニジアは政権交代が行われ、リビアのカダフィは殺害されてしまった。そうした社会情勢の違いはあっても、やはり本書は、まだイスラム社会を理解する上では多くの示唆を与えてくれる。

スーフィズム(神秘主義)については井筒俊彦の本から知っていたが、実際は田舎の部族が頼るもので、土着の信仰とないまぜになったものだ、という見方は知らなかった。大変勉強になった。

上記引用の、文盲だからという箇所についてだけど、イスラム社会は声の文化なのではないか。マレーシアでも決まった時間にはモスクからアザーンが朗々と聞こえてくるし、井筒俊彦の回顧録にもそういう話が出てくる。本書でもp.290にアルジェリアのスーフィー(イスラム神秘主義者)コーランの九割を覚えたというエピソードが出てくる。解釈や伝承を捨象して、原典に忠実な姿勢をしめすには、頭の中にあるコーランを引用すればいいのだけれど、そのあたりの説明がないのがもどかしい。(もっとも、オングの『声の文化と文字の文化』の出版は本書の翌年、1982年だから仕方ないとも言えるのだけど。)

惜しむらくは、原著書の題名がMuslim Societyだったのだが、本書では(出版当時の)日本の事情を考慮して『イスラム社会』と訳出された。今ではムスリム社会でも通じるだろう。ここ十数年でイスラムもずいぶん人口に膾炙した。そのほか、原住民と書いていたり(Aborigineだったらまだしも、Indigenous Peopleは、今は先住民という。中国語では原住民と言うけれど。)、諸刃の剣と諸刃の刃と、両方の書き方が混在していたりと、少し急いだような箇所が見られるところだ。

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暴力の根源をさぐる

ソレル, ジョルジュ著/ 今村仁司・塚原史 訳(2007)『暴力論』(上下巻)岩波書店

知事たちは、蜂起派の暴力(ヴィオランス)に対して合法的武力(フォルス)を発動せざるを得なくなることを恐れて、雇用者側に譲歩を強いるよう圧力をかける。(中略)知事は労使双方を脅して、巧みに合意へと導くために、警察力の行使を調整するのである。(本書上巻 p.118)

強制力(フォルス)は、少数派によって統治される、ある社会秩序の組織を強制することを目的とするが、他方、暴力(ヴィオランス)はこの秩序の破壊をめざすものだといえるだろう。ブルジョワジーは、近代初頭以来、強制力(フォルス)を行使してきたが、プロレタリアートは、今や、ブルジョワジーに対して、そして国家に対して暴力(ヴィオランス)で反撃している。(本書下巻 pp.53-54)

労働に比例してただちに手に入る個人的報酬がなくても、おのずから現れてくる最良のものへの努力は、絶えざる進歩を世の中に保証するひそかな美徳である。(本書下巻 p.196)

すぐれた生物学的記述を得るために、人間の諸集団が提供する豊富な資料を利用した後で、人間たちについての観察を利用して組み立てられたが、博物学の必要に合わせようとする過程で明らかに変更を加えられた定式を、社会学者の流儀にならって、再び社会哲学に導入する権利など存在するだろうか。そうした定式は有機的生命体には適切に応用できるとしても、われわれの本性中、もっとも高貴な特権だと万人が認めるものを消去することで、人間活動の概念を奇妙なまでに歪曲してしまった。(本書下巻 pp.208-209)

晦渋な文章である。

今村仁司の『暴力のオントロギー』を読んで以来、ずっと気になっていたソレルの『暴力論』。やっと読むことができた。このあとはベンヤミンの『暴力論批判』か、あるいはサン・シモン主義を勉強すればいいのかしら。

訳者の塚原があとがきで書いている通り

今村さんは、以前から「暴力、労働、ユートピア」を研究の主要な柱としており、『暴力のオントロギー』や『排除の構造』などの仕事で、彼自身の暴力論の構築を試みていたから(以下略)
(本書下巻 p.308)

ということで、本書を今村の仕事との類似性を求めて読むと、毛色の違いに驚く。

本書はマルクスの理想を現実にするための手段を探ったものと言える。彼はそのための唯一にして最も効果的な手段がゼネストであると述べる。これが上下巻ともに一貫した主張なのであるが、如何せん当時の欧州の事情を踏まえつつ、晦渋な文章と格闘しないといけないので、読みづらい書となっている。これは訳が悪いのではなく、原文もそもそもからして晦渋らしく、それを忠実に訳したらしい。まさに誠実な醜女。

ソレルのいう暴力(ヴィオランス)とは、ゼネストのような下から上へ向かう力のことであって、上から下へ向かう抑圧のために使われる力である強制力(フォルス)と区別した。そしの上で今やその暴力(ヴィオランス)を抑え込むほどの力(フォルス)のない支配層を、こちらの立ちまわり方次第で追い出し、よりよい社会を作ろうと呼び掛ける。

少数の支配層が自分たちのために政治を行っている現状をゼネストにより打破し、労働者の組合(革命的サンディカリスト)が国家を運営する。彼らは少数の支配層よりも多くの人民の利益を代表するから、よりよい大衆のための社会ができるはずだ。マルクスのドイツイデオロギーに書かれていた話を思い出させる、ここに論理的破綻はない。

上部の命令によるのではなく、末端の兵士は自らの栄達のために戦闘をする。それと同じく理想の社会のため、革命闘争に参加せよと呼び掛けるソレルのやり方は、おそらく最も効果的なものだろう。語られた理想論をより現実に適用しやすいよう調整していく努力は、とくに上記引用の最後の部分(「付論1 統一性と多様性」より)に書いてある通り、単に統一を目指せばいいのではなく、現実を見てそれに合うように理論構築をしていこうとする姿勢は、現代性を失わない。

論理的にも整合性がとれ、現実に合うように理論を構築していった社会主義者たちがいたなかで、なぜソ連は崩壊したのか。理想や理論よりも強力な、人を想定外の方向に動かす何かが、現実には存在したのだろう。

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パースを知るための第一歩

有馬道子(2001)『パースの思想』岩波書店

このようにソシュールの記号論が「コードとメッセージの記号論」として、歴史的、社会的体系の中の価値としての恣意的な記号をあつかうものであるのに対して、パースの記号論は無現の「意味作用の記号論」として、身体的経験的に自然とつながりつつ社会的論理と場(コンテクスト)に開かれた対象を指し示す記号をあつかうものとなっており、新陳代謝的にたえず更新される「場の記号論」「解釈の記号論」となっている。(本書 p.60-61)

ある私の友人は、高熱の後、聴力をすっかり失ってしまった。この不幸な出来事の起こる前、彼はとても音楽が好きであった。(中略)その後でもよい演奏者が弾くときには、彼はいつでもピアノのそばにいることを好んだのであった。そこで私は彼に言った。結局のところ、すこしは聴こえるんだね、と。すると彼は、ぜんぜん聞こえないさ-でも全身で音楽を感じることができるんだ、と答えた。私は驚いて叫んだ。(中略)同様に、死んで肉体の意識がなくなると、私たちはそれまで違った何かと混同していた生き生きとした霊的意識(spiritual consciousness)をそれまでもずっともっていたことにすぐ気づくことになるだろう。(CP. 7. 577)(本書 p.103)

この段階におけるアラヤ識を井筒俊彦(1983年)は「言語アラヤ識」と呼んでいる(こうした見方を、パースの「シネキズム」およびデリダの「差延」や「痕跡」と比較してみるのも興味深い。これらの間に本質的な相違はみられないからである)。(本書 p.191)

パースの話をするときには今でも本書が引用されることが多いので、避けて通れない本となっている。パースの思想を知るにはまとまりもよく、分量も短く、読みやすい本だと思う。パースの思想のみならず、その西洋思想(おもに言語学)上の位置づけを素描し、ソシュールとの関係はもちろん、チョムスキーやヤコブソン、ボアズやサピア、ウォーフにつながる系譜まで紹介しているあたりは、小山亘の『記号の系譜』の簡略版ともいえ、非常に見通しがいい。また後半になると井筒俊彦の『意識と本質』を引いており、補論には老荘の思想について書いているあたり、東洋思想との比較まで試みた、大変意欲的な書である。

パースの記号論は言語学のみならず、人間世界のすべてに適用できる視野の広い思想である。その点はソシュールよりも断然応用が利く。ソシュールがアナグラムに走って世界を変えようとしていたが、パースは自身の苦しい生活の中で得た神秘体験を通して、世界を解釈した。そして、それを説明し得るようなモデル(アブダクション)を作り上げたのだった。その点、同じ慧眼を持った学者とは言え、言語の能記(シニフィアン)と所記(シニフィエ)に着目したソシュールと比べると根性が違う。

上記の系譜に連なるボアズ、サピア、ウォーフがパースと共通している点は、言語に出てくるものと、そこに直接的には出てこないが、出る過程に影響を与える文化的な形があったという点だ。これについて著者は精神的中間体を仮定したフンボルトや、語りえぬものについては沈黙せざるを得ないという形で言語の限界を示したヴィトゲンシュタインにも言及している。

そうすると当然言語アラヤ識の話になってくるんだけど、やっぱりこうなると井筒俊彦以外に拠って立つところは無い。早い話が彼の著作を読めばいいのだけど、かなり骨が折れる。えらくざっくり言うとすべての言語表現の発動のきっかけとなる種子(しゅうじ)として、アラヤ識の中に言語アラヤ識というのがあり、その発動過程、発露の仕方は文化に影響されるということを言っているのだけど、唯識ではそもそもアラヤ識にある種子を取り払う修行をしているので、その存在を認めるだけの思想よりも、対応方法まで考えるあたり、(いいのか悪いのかは別にして)一歩進んでいるよなぁ、と思う。

仏教の話が出たついでに言っておくと、本書においてライプニッツの話の中で、過去と現在の2点を仮定したとき、その間に挿入できる点は無限にあることから、過去と現在は連なりであって断絶は無い、という話があったが、同じ無限の点を挿入できるからと言っても、それが連なりであるとは限らず、水は一瞬にして醤油のような他の物質にもなりかねない、と考えているアビダルマも、やっぱり深く考えてるなぁ、と思った。

こうした東洋と西洋の思想の違いに目を向けさせてくれる、非常に示唆に富む本だった。

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サントリー学芸賞 レビュー

機械語と自然言語の包括的分析

田中久美子(2010)『記号と再帰 記号論の形式・プログラムの必然』東京大学出版会

二元論では使用は記号モデルの外に配置され、使用によって生成される記号の意味は記号系の全体論的価値を為した。一方の三元論では使用は記号モデルの内側に含められた。(中略)二元論では、記号はよその記号から呼ばれ、呼んだ記号がまた別の記号から呼ばれることを繰り返して記号過程が生成されたのに対し、三元論では、記号の解釈項を自身が呼び、解釈項がさらに記号を為すのでさらにその解釈項を呼び、というように記号過程が生成された。(本書 p.78)

構造的な記号系では意味が明示的ではないため、記号の意味はいつもある程度曖昧であり、他の記号との重なりもある。(中略)したがって、ある記号が一つ削除されたからといって、すべての系が動かなくなることはなく、同じとまではいかなくとも、補強を要しつつも何とか系全体が動き続ける。一方で構成的な記号系では、記号は投機的に導入されても最終的には明示的で曖昧性のない内容となるように導入されなければならない。(本書 p.183)

本書はプログラムに用いられるような機械語を通して、元来おもに自然言語の俎上でしか論じられてこなかった記号論の新たな世界を切り開いた。2010年度のサントリー学芸賞受賞作であるが、その評でも少しふれられているとおり、本書は従来の区切りからすると理系の本である。参考文献の書き方や論の進め方といったスタイルから、必要とされる基礎知識まで、理系の教育を受けてきた人のほうがすんなり読めるのではないかと思う。私のように、高校の数学の時間に教師が「私の時代はプログラムは無かったから…」と言ってそこは飛ばされて教わったような、浅学の身には少々荷が重い。

ただ、プログラムを知らなかったらまったく読めないというわけでもない。基本的な路線としては、関数がデータ構造に外在する関数型プログラミングと、内在するオブジェクト指向プログラミングの違いと二元論と三元論の違いをみて、その位置づけを探り、オブジェクト指向プログラミングと自然言語でよくおこなわれる再帰について分析を行うという形をとっている。前者は解釈方法が開示された開かれた系であり、後者は開示されていない閉じた系であることに差がある。

本書を読んでいる間、ずっと感じていたのが、プログラムで用いられる機械語は、自律的な変化を伴わない静的な言語なので、これまでの記号論(少なくともソシュールは)前提としてきた自然言語と同列で語っていいのか、という疑問であった。すなわち、サピアのいうドリフトが起きない言語、フンボルトのいうエネルゲイアとしての言語ではなく、エルゴンとしての言語を対象としているのではないかという疑問である。

しかし、上記の引用の個所でこの疑問は氷解した。ひとつに、ソシュールは言語研究はラングを対象とすると同時に、共時態と通時態の両方をみるようにと言っている。そうすれば、本書では取り急ぎ共時態の側面をみているということになるので、問題はない。エネルゲイアの問題については本書のかなり最後のほうで触れられるコンパイラの話や自動生成プログラムの話が関連するだろう。私にとってもっとも大きな収穫は、自然言語は閉じた系であるために、言語のルール(ラング)を共有している人々の間ですら解釈系が共有されず、相手の反応から相手の解釈系を勝手に解釈しているにすぎない。それが反射して自らのランガージュに跳ね返ってくるという再帰的な行為を行っているのだけれども、ここにエネルゲイアの源泉があり、ドリフトのトリガーがあるのだろう。

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分かりやすいアフォーダンス論

佐々木正人(2010)[2008] 『アフォーダンス入門』講談社

「光の集まりの束とその集合」として証明の事実を考えることで、ギブソンは、見るということが、一人の知覚者だけの一回きりの出来事として起こり、他のだれにも経験できないことだという常識を原理的に打ち破る道を開いた。(本書 p.95)

すべての光の集まりの束が埋めこんでいる構造はどれも、視覚がそこに何かを発見するための永続的な可能性として存在し続けている。(本書 p.97)

身体の制御の原型がこのようなものであると考えると、一つの事実があきらかになる。それは身体を制御するためには、筋も骨もいつも休みなく動き続けていなければならない、ということである。生きものの動きの制御はたえまなく動くことで達成されている。(本書 p.117)

アフォーダンス論については全く知らなかったので、勉強の足掛かりとして本書を読んだ。字も大きくていい本だ。

大学院時代にアフォーダンスにハマッている人がいて、何がこの人をしてそこまで魅惑させているのかと思っていたが、これを読んでひとつ思い当るところがあった。「光の集まりの束」であったり「振動の場」であったり「香りの場」であったり、場面の設定の仕方が光や音やにおいにあふれた魅惑的な場所に見えるのだ。

ただ、アフォーダンスはaffordからきていることでもわかるとおり、「~をすることが可能」であることを表す。この理論の誕生前の言語学において、すでに戦前の本で関口存男が『接続法の詳細』をはじめとした著書で展開した言語理論、意味形態論で彼は○○という語の用法についてよりも、人生にはかくかくしかじかの局面がある、その局面ではドイツ語ではどういうか、ということに重点を置いていた。その前者の視点こそアフォーダンスである。私は彼の言語理論に賛成で、言語学は個別の単語の使い方にこだわるのではなく、人生の局面においてどう表現するかに重点を置くべきである、すなわち、語のアフォーダンスよりも「考え方の筋道」に主眼を置くべきである、と考えている。

この理論の白眉はアフォーダンスを設定したことよりも、上記に引用した箇所にあるとおり、人間の身体をロボットのそれと同じような安定したもの(本書ではcoordinationとして紹介されている)ではなく、常にバランスがとれるように制御され続けているものである、と見抜いたことにある。静止している人間はstable(安定している)なのではなく、stabilizing(安定させている)なものなのである。そうして周囲の環境を認知しながら、こちらの姿勢もそれに合わせている。間断のない相互作用を見出したことに、アフォーダンス理論の可能性があると思われる。

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東洋的存在論アビダルマ

櫻部建, 上山春平(2010)[1996] 『仏教の思想2 存在の分析<アビダルマ>』角川学芸出版

植山 (註:唯識では)スヴァバーヴァ(註:体)はもう認めないのですか。
服部 認めません。
櫻部 そのスヴァバーヴァの否定は歴史的順序からいえばまず中観がやるわけです。
上山 中観のほうが唯識よりも先ですか。
櫻部 そうです。中観はもっぱらその点で説一切有部を攻撃するのですね。説一切有部のようにスヴァバーヴァとしてのダルマのあり方を主張するとすれば、中観派の考え方からすると、それはどうしても諸行無常ということにはならないわけです。
上山 「法体恒有」ということは否定されるわけですね。
櫻部 法体というスヴァバーヴァの存在を否定するわけです。だからダルマはニフ・スヴァバーヴァ(無自性)で「空」だというのです。
上山 その上に立って唯識が再構成しているのですね。その再構成するほうには中観はあまり熱を入れてないわけですか。
服部 中観はもっぱら否定するほうです。アビダルマの客観的な分析の立場を批判して、主体的立場を恢復することに中観の歴史的課題があったのだと思います。
(本書 pp.252-253)

修行の世界では「唯識三年、倶舎八年」といわれるくらいのもの、じっくり取り組むしかなさそうだ。

一読して得られる所はただただアビダルマの難解さだった。最初の読みとしては、こういう世界もあるんだと思うしかない。

本書の構成は最初にアビダルマの体系が語られ、次に上に引いた対話、そして最後にアビダルマの周辺の開設となっている。難解で、なんでこういう細かいところまで考え込んだのか、ここまで来ると細分化のための再分化じゃないのかと思えてくるアビダルマの体系を一読し終えて、解説を読むとその謎が氷解する。

結局、アビダルマはエッセンスを大事にすべきで、細分化しすぎているきらいがあるので、そこにはあまり価値がないようだ。

アビダルマとはブッダの教えのことで、ブッダの死後数百年たってから編纂されたもの。結局何が書かれてあるかというと、人生の苦から解放されるためには、煩悩を消滅させた、涅槃の境地に入らなくてはならない。それでこそ苦の連続である生の繰り返し(輪廻)からも解放される。そのためには正しい修行をせねばならない。どういう手順をとり、どうやったら涅槃の境地にいけるのか。それの指南書がアビダルマである。

最初の部分を読んだ後、それに続く解説と対話が、もやもやとした謎をすっきりと解いてくれて、面白かった。因縁が必ずしもいつでも成立するとは限らないこと(だから、目の前にある水も連続して存在しているのではなく、一瞬前の因によって生じた果であるから、これからずっと水であり続ける保証はない)、現在のほか、過去と未来をそ呈することによって無限の変化の連続を設定し、それによって諸行無常を説明している。こうした三種の時間の連続という分析方法についてベルクソンの哲学との類似性が指摘されていたり、一度できた体系を壊して、また再構築するという西洋哲学(思想)にもあった振り子運動が仏教でも生じていたりして、興味深い。

いろは歌も要約すれば「すべてのものは変わる。変わるのを見ていくのが楽しい」という、こうした仏教(インド)に由来するものの見方が現れているらしい。認識の分析には、なぜ仏教が広まったのか、その理由が分かるくらい魅力的な思想が広がっていた。

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大きな物語崩壊後に成長するデータベース

東浩紀(2001)『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』講談社

シミュラークルの水準における「小さな物語への欲求」とデータベースの水準における「大きな非物語への欲望」に駆動され、前者では動物化するが、後者では疑似的で形骸化した人間性を維持している。要約すればこのような人間像がここまでの観察から浮かび上がってくるものだが、筆者はここで最後に、この新たな人間を「データベース的動物」と名づけておきたいと思う。(本書 p.140)

非常に有名な本。いわゆるサブカルチャーをする場合には非常に参考になる本。

かつては作品があれば作者が舞台とした世界があり、作者が書く(あるいは制作する)ものしか受け入れられなかった。一方、オタクと呼ばれる人たちは作者が書いたもののパロディ(あるいはオマージュ)として二次創作をおこない、それらも同様に受け入れられている。甚だしくは作者自身がパロディ作品を作ったりしている。彼らにとって大事なものなのは作者が舞台とした世界ではなく、作者の描いた要素(萌え要素)である。読者の喜ぶ要素を押さえていれば、それは受け入れられる。こうした状況を様々な材料からある要素を組み合わせて作るという点で、筆者はデータベース的であると分析する。

こうした考え方は非常に面白い。2000年代初頭にこの本が書かれているのだけれども、こういう視点から行われている分析というのはいまだにあまりないのではないかと思う。筆者はこれをポストモダン的社会の特徴であると述べているが、あるいはポストモダン的社会以外でも使えるのではないか。これは要素のブリコラージュで、データベース(大きな非物語)の中にあるそれぞれの要素を持ってきてくっつけて、作品(あるいは小さな物語)を作り出すという考え方は様々に応用できると思う。言語の分析においても、書かれたり話されたりしている言語(小さな物語)からその奥にある要素の海(大きな非物語)へのアプローチを行うという方向があってもよさそうだ。

ホンモノがなくなったポストモダン的時代での、非常に有力な社会分析のアプローチが本書では簡潔に、かつ興味深い形で呈示されている。

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心身二元論の根源

デカルト, ルネ(谷川多佳子訳)(2007)『方法序説』岩波書店

すなわち、このようにすべてを偽と考えようとする間も、そう考えているこのわたしは必然的に何ものかでなければならない、と。そして「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する[ワレ惟ウ、故ニワレ在リ]」というこの真理は、懐疑論者たちのどんな途方もない想定といえども揺るがしえないほど堅固で確実なのを認め、この真理を、求めていた哲学の第一原理として、ためらうことなく受け入れられる、と判断した。(本書 p.46)

したがって、このわたし、すなわち、わたしをいま存在するものにしている魂は、身体[物体]からまったく区別され、しかも身体[物体]より認識しやすく、たとえ身体[物体]が無かったとしても、完全に今あるままのものであることに変わりはない、と。(本書 p.47)

最近(といってもここ数十年だけど)、デカルト的心身二元論を克服すべく、いろいろな学者が頭をひねっている。古くは井筒俊彦の『意味の深みへ』にも見られるし、近年ではIngold, Tim (2000) The perception of the environment: essays on livelihood, dwelling and skill. Routledge.にも見られる。もっとも、前者も後者もデカルトを批判しているのではなく、欧州に古くからはびこるこうした二元論を克服しようとしている。

Je pence donc je suis. (羅: Cogito ergo sum) はやたら有名な言葉だけど、その真意は本書を読んで初めて知った。

デカルトはまずすべてを疑うところから始めた。そして一から新たな真理の体系を作り出していこうと考えた。そして、これまで他人が証明し、正しいと学んだことをすべていったん保留し、もう一度自分で確かめていこうと決めた。

たとえば、いまいるこの世界について考えてみる。たとえば夢の中では、我々は夢だと気づかない。夢の中の世界を、まるで現実の世界のように感じる。でも、夢の世界は現実じゃない。逆に、現実のように感じられるこの世界も、夢のようにはかないものかもしれない。

そうして周りのものをすべてを疑って、疑って、疑い続けても、唯一疑いえないものが残る。それは「考えている自分がここにいる」という事実である。この宇宙と別の宇宙を考えることもできるし、自分のいない世界を考えることもできる。でも、考える自分のいない世界を考えることはできない。

だからデカルトは、それを哲学の原理の一つとすることにした。すなわち、身体は疑うことができても、考える自分(心)は疑うことができない、ということで、ここに心身二元論が明確にうち立てられている。

デカルトにとっての真理の探究とは、すなわち神によってつくられた自然法則の発見にあったようだ。真理を発見しない限りわかっていない人間は不完全な存在で、逆にそうした真理を世界にちりばめた神こそ、完全な存在である。こうした考え方が非常に欧州っぽい。後年、ニーチェが神を殺すことによって、この前提は覆される。

心身二元論、動物と人間との区別、そうしたものが100ページ程度の本書に明快に述べられている。アプローチの違いはあれども、真理の探究という学問の志向自体は変わってない。