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これで分かる『論理哲学論考』

ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン 著/木村洋平 訳・注解(2010)『『論理哲学論考』対訳・注解書』 社会評論社

注 4.114 『論考』の哲学は、「思考の空間」を「言語の空間」に置き換えて、そこで、有意味な命題と無意味な命題の間に境界線を引くことによって、施行できる領域を確定する。
(本書 p.135)

7 語りえないことについて人は沈黙する。
7 Wovon man nicht sprechen kann, darueber muss man schweigen.
(本書 pp.358-360)

この訳者は1983年生で、本書を出したのが27歳のとき、さらにこれより前に訳本を出しているから、もっと若くデビューしたことになる。

ドイツ語と日本語の対訳なので、日本語で意味の取りづらい箇所があれば、ドイツ語で何となく大意をつかんで分かった気になることも可能である。

また、左ページにある対訳に対応する形で、右ページには注解が入る場合には入る。

本書の成果の一つは、言語で表現できる境界を確定させたことである。すなわち、言語に表現できるものはともかく、言語で表現できないものについては沈黙せざるを得ないのだ。

それは例えば「AはBよりCだ」という形式を示すことは出来ても、その意味が述べられないような事態が該当する。(2.172)

例えば楕円を写し取るのに真四角の桝目で観測するか、正三角形の升目で観測するかで、元となった楕円は同じなのに、写し取られた形が変わる。そうした形については示せるものの、語り得ない。

ヴィトゲンシュタインは自分の構築した体系のなかでは完全に透徹した論理を貫いている。本書は短いし、与えたインパクトは大きいし、それにドイツ語だといまやProject Gutenbergで無料で読める。そういう意味では読んでおいて損はない。

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パースを知るための第一歩

有馬道子(2001)『パースの思想』岩波書店

このようにソシュールの記号論が「コードとメッセージの記号論」として、歴史的、社会的体系の中の価値としての恣意的な記号をあつかうものであるのに対して、パースの記号論は無現の「意味作用の記号論」として、身体的経験的に自然とつながりつつ社会的論理と場(コンテクスト)に開かれた対象を指し示す記号をあつかうものとなっており、新陳代謝的にたえず更新される「場の記号論」「解釈の記号論」となっている。(本書 p.60-61)

ある私の友人は、高熱の後、聴力をすっかり失ってしまった。この不幸な出来事の起こる前、彼はとても音楽が好きであった。(中略)その後でもよい演奏者が弾くときには、彼はいつでもピアノのそばにいることを好んだのであった。そこで私は彼に言った。結局のところ、すこしは聴こえるんだね、と。すると彼は、ぜんぜん聞こえないさ-でも全身で音楽を感じることができるんだ、と答えた。私は驚いて叫んだ。(中略)同様に、死んで肉体の意識がなくなると、私たちはそれまで違った何かと混同していた生き生きとした霊的意識(spiritual consciousness)をそれまでもずっともっていたことにすぐ気づくことになるだろう。(CP. 7. 577)(本書 p.103)

この段階におけるアラヤ識を井筒俊彦(1983年)は「言語アラヤ識」と呼んでいる(こうした見方を、パースの「シネキズム」およびデリダの「差延」や「痕跡」と比較してみるのも興味深い。これらの間に本質的な相違はみられないからである)。(本書 p.191)

パースの話をするときには今でも本書が引用されることが多いので、避けて通れない本となっている。パースの思想を知るにはまとまりもよく、分量も短く、読みやすい本だと思う。パースの思想のみならず、その西洋思想(おもに言語学)上の位置づけを素描し、ソシュールとの関係はもちろん、チョムスキーやヤコブソン、ボアズやサピア、ウォーフにつながる系譜まで紹介しているあたりは、小山亘の『記号の系譜』の簡略版ともいえ、非常に見通しがいい。また後半になると井筒俊彦の『意識と本質』を引いており、補論には老荘の思想について書いているあたり、東洋思想との比較まで試みた、大変意欲的な書である。

パースの記号論は言語学のみならず、人間世界のすべてに適用できる視野の広い思想である。その点はソシュールよりも断然応用が利く。ソシュールがアナグラムに走って世界を変えようとしていたが、パースは自身の苦しい生活の中で得た神秘体験を通して、世界を解釈した。そして、それを説明し得るようなモデル(アブダクション)を作り上げたのだった。その点、同じ慧眼を持った学者とは言え、言語の能記(シニフィアン)と所記(シニフィエ)に着目したソシュールと比べると根性が違う。

上記の系譜に連なるボアズ、サピア、ウォーフがパースと共通している点は、言語に出てくるものと、そこに直接的には出てこないが、出る過程に影響を与える文化的な形があったという点だ。これについて著者は精神的中間体を仮定したフンボルトや、語りえぬものについては沈黙せざるを得ないという形で言語の限界を示したヴィトゲンシュタインにも言及している。

そうすると当然言語アラヤ識の話になってくるんだけど、やっぱりこうなると井筒俊彦以外に拠って立つところは無い。早い話が彼の著作を読めばいいのだけど、かなり骨が折れる。えらくざっくり言うとすべての言語表現の発動のきっかけとなる種子(しゅうじ)として、アラヤ識の中に言語アラヤ識というのがあり、その発動過程、発露の仕方は文化に影響されるということを言っているのだけど、唯識ではそもそもアラヤ識にある種子を取り払う修行をしているので、その存在を認めるだけの思想よりも、対応方法まで考えるあたり、(いいのか悪いのかは別にして)一歩進んでいるよなぁ、と思う。

仏教の話が出たついでに言っておくと、本書においてライプニッツの話の中で、過去と現在の2点を仮定したとき、その間に挿入できる点は無限にあることから、過去と現在は連なりであって断絶は無い、という話があったが、同じ無限の点を挿入できるからと言っても、それが連なりであるとは限らず、水は一瞬にして醤油のような他の物質にもなりかねない、と考えているアビダルマも、やっぱり深く考えてるなぁ、と思った。

こうした東洋と西洋の思想の違いに目を向けさせてくれる、非常に示唆に富む本だった。

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サントリー学芸賞 レビュー

機械語と自然言語の包括的分析

田中久美子(2010)『記号と再帰 記号論の形式・プログラムの必然』東京大学出版会

二元論では使用は記号モデルの外に配置され、使用によって生成される記号の意味は記号系の全体論的価値を為した。一方の三元論では使用は記号モデルの内側に含められた。(中略)二元論では、記号はよその記号から呼ばれ、呼んだ記号がまた別の記号から呼ばれることを繰り返して記号過程が生成されたのに対し、三元論では、記号の解釈項を自身が呼び、解釈項がさらに記号を為すのでさらにその解釈項を呼び、というように記号過程が生成された。(本書 p.78)

構造的な記号系では意味が明示的ではないため、記号の意味はいつもある程度曖昧であり、他の記号との重なりもある。(中略)したがって、ある記号が一つ削除されたからといって、すべての系が動かなくなることはなく、同じとまではいかなくとも、補強を要しつつも何とか系全体が動き続ける。一方で構成的な記号系では、記号は投機的に導入されても最終的には明示的で曖昧性のない内容となるように導入されなければならない。(本書 p.183)

本書はプログラムに用いられるような機械語を通して、元来おもに自然言語の俎上でしか論じられてこなかった記号論の新たな世界を切り開いた。2010年度のサントリー学芸賞受賞作であるが、その評でも少しふれられているとおり、本書は従来の区切りからすると理系の本である。参考文献の書き方や論の進め方といったスタイルから、必要とされる基礎知識まで、理系の教育を受けてきた人のほうがすんなり読めるのではないかと思う。私のように、高校の数学の時間に教師が「私の時代はプログラムは無かったから…」と言ってそこは飛ばされて教わったような、浅学の身には少々荷が重い。

ただ、プログラムを知らなかったらまったく読めないというわけでもない。基本的な路線としては、関数がデータ構造に外在する関数型プログラミングと、内在するオブジェクト指向プログラミングの違いと二元論と三元論の違いをみて、その位置づけを探り、オブジェクト指向プログラミングと自然言語でよくおこなわれる再帰について分析を行うという形をとっている。前者は解釈方法が開示された開かれた系であり、後者は開示されていない閉じた系であることに差がある。

本書を読んでいる間、ずっと感じていたのが、プログラムで用いられる機械語は、自律的な変化を伴わない静的な言語なので、これまでの記号論(少なくともソシュールは)前提としてきた自然言語と同列で語っていいのか、という疑問であった。すなわち、サピアのいうドリフトが起きない言語、フンボルトのいうエネルゲイアとしての言語ではなく、エルゴンとしての言語を対象としているのではないかという疑問である。

しかし、上記の引用の個所でこの疑問は氷解した。ひとつに、ソシュールは言語研究はラングを対象とすると同時に、共時態と通時態の両方をみるようにと言っている。そうすれば、本書では取り急ぎ共時態の側面をみているということになるので、問題はない。エネルゲイアの問題については本書のかなり最後のほうで触れられるコンパイラの話や自動生成プログラムの話が関連するだろう。私にとってもっとも大きな収穫は、自然言語は閉じた系であるために、言語のルール(ラング)を共有している人々の間ですら解釈系が共有されず、相手の反応から相手の解釈系を勝手に解釈しているにすぎない。それが反射して自らのランガージュに跳ね返ってくるという再帰的な行為を行っているのだけれども、ここにエネルゲイアの源泉があり、ドリフトのトリガーがあるのだろう。

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一途で開ける可能性

石井米雄(2003)『道は、ひらける-タイ研究の50年』めこん

 出発点は小林英夫であり、先生に導かれたソシュールである。そこから社会的事実としての言語の分析学を知り、更に青年期の宗教遍歴の総括としての宗教社会学を学んだ。タイの社会史に興味を持つうちに、資料上の必要からタイの法制史を学ぶはめになる。歴史資料を扱うのだから、歴史学の基本であるテキストクリティークの勉強も必要となった。一見支離滅裂に見える。しかし主観的には、これらの間に一分の隙間もない。
これらを結んでいるのはなにか? なにが私を精神分裂の危機から救っているのか? すべてはタイである。研究の、と言ってはおこがましいかもしれないほど興味の尽きないタイがすべてである。すべてがタイに始まり、タイに終わる。それはなぜか? タイから離れられなくなったからである。なぜ離れられないのか。(中略)みんなに義理があるからである。彼らのひとりびとりの顔が、私をタイから離さないのである。(本書 pp.187-188)

高卒にして京都大学の教授から、最終的には文化功労者にまでなった石井米雄の自叙伝。

こういう評価の仕方をすると、大人になってからの努力で功なり名を遂げた人物のように思いがちだが、本書を読むとその見方が間違いだということを思い知る。

早稲田の時代は好きなことをやっていたようだけれども、東京外大への入試にあっさり合格しているし、15人の枠に1500人が受けた(100倍!)試験を突破してノンキャリアとは言え、外務省の専門職員として採用される。教科書を丸暗記、と簡単に書いてあるがおそらく著者はもともと努力をすればできる人だったのではないか。石井米雄といい佐藤優といい、たまに異色のノンキャリアが誕生するところをみると、外務省は人材豊富なんだなと思わせる。

もちろん、努力もしている。

研究者が10時間を研究のために使えるとしたら、自分はおそらく30分くらいしか割くことはできないであろう。それでも、その30分を積み重ねれば、塵も積もれば山となるたとえのように、研究者でありつづけることができるかもしれない。(本書 p.177)

こうした努力と縁とが実を結んだ結果が、押しも押されもせぬタイ研究の大家となった裏にあることを理解すべきだろう。

注目したのは著者の語学遍歴のすごさ。

旧制中学から早稲田第一高等学院の理科に進学したとき、理科にも関わらず語学に興味を持って授業での英語とドイツ語のほか、ドイツ人の個人教室に通ってドイツ語を学んだ。旧制高校が新制の早稲田大学になったとき、文学部に転部してラテン語を学んだが、その際に先生がフランス語を引き合いに出して困ったから同じクラスの仏文科の学生からフランス語の手ほどきを受けた。その直後、文学部の英文科から仏文科へと転科する。2年目からはギリシャ語を受けると同時に、あのソシュール言語学の紹介者である小林英夫(当時東工大教授)から言語学とイタリア語の手ほどきを受ける。しばらくして「あまり人のやっていないアジアの言語をやったらどうだ」(p.35)という小林の一言でマレー語をやったあたりから、アジアとの縁が始まる。東京外大の徳永康元(ハンガリー語)を紹介してもらって相談したところ、シャム語の松山納を紹介してもらう。そしてタイ語とタイにはまっていく。

著者44歳のときにはロンドンへの研究留学が認められてロンドン大学でビルマ語とカンボジア語を学ぶ。熱意さえあれば40の手習いでも言語を学び続けることができるという証左になるこのエピソードに、ぼくは大いに勇気づけられた。そのロンドンで見つけたタイに派遣されていた修道士の文献を読む際に、若い時に習得したラテン語が大いに役に立ったというのは、文系研究者にとっての古典語の重要性を教えてくれる。

今の時代、言語学を学ぶ大学院生でもそこまでのポリグロット(多言語話者)はいない。そもそも複数言語を学ぶのは、著者も目指していた通り比較言語学を専攻する際に必要となるからで、いまのような比較言語学が主流を占めなくなってしまった状態だと、ポリグロットが減るのも当然である。だからこのエピソードをみると古き良き時代の話だと思って感慨にふけってしまった。

本書で最も興味をひかれたのは出家をめぐるやり取りと(当時は外国人が出家をするのは非常に珍しかった)、その出家がタイでの人脈形成やほかの人々との関わりに大いに役立ったという点だ。文化人類学者かくあるべし、と思わせるくだりである。

よく大学院生が受ける質問に「なぜそれをやろうと思ったの?」というのがあるが、研究のフィールド選びなんてのは、畢竟、縁とたまたまによるものだという、冒頭で引いた著者の発言は簡単だけど深い。

この本は職場の人から借りた。彼は仕事で著者と関わりがあったらしく、「石井先生」と呼んでいた。ぼくにとっては歴史上の人なので、先生という敬称をつけるなんていうおこがましいことはできない。生前の著者は人見知りっぽいところがあった、と聞いたけど、そういう関わりがあった彼を羨ましく思った。

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レビュー 読売文学賞

適切さと美しさの間の悩み

米原万里(2010)[1998]『不実な美女か貞淑な醜女か』新潮社

通訳や言語の話を書いたエッセイ集。語学を生業にする人にとっては、とても面白く読める本。

著者の周りが特別なのかもしれないが、下ネタやダジャレがちりばめてあって楽しく読める。

通訳とは一言一句をすべて訳すのではなく、文意を伝えられればいいのだという点には目からうろこだった。日本の大学・大学院では一言一句もらさずに読むよう訓練されるので、驚きだった。もっとも、欧米ではもっとおおざっぱな読み方をするらしいことが、鈴木孝夫・田中克彦(2008)『対論 言語学が輝いていた時代』に書かれてある。

数年前のこと、耳を疑うような発言をした女性人気アナウンサーがいた。(中略)

「私たちは子供を国際人にしたいから、家では一切日本語をしゃべらないことにします。家ではすべて英語で話すようにする」

と自信満々に云いきったのだった。(中略)

自分の国を持たないで、自分の言語を持たないで、国際などあり得るのか。
(pp.279-280)

自身も帰国子女である著者のこの指摘は、大変興味深かった。

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言語学が熱かった時代を振り返る

鈴木孝夫、田中克彦(2008)『言語学が輝いていた時代』岩波書店

(田中) (前略)だから、最近は人間の屑がやるのが言語学だとつくづく思う(笑)。自分の土壌を持っていないんだもの。(本書 p.203)

(鈴木) だからもっと言語学者に自殺する人が出ないと、言語学は本物じゃないのではないか。詩人や絵描き、小説家はしょっちゅう自殺するのに、言語学をやって自殺した人が少ないのはどういうわけだって。(本書 pp.229-230)

本書が最初に出たことは、単なる二人の対談による回顧録かと思っていたけども、その認識を新たにさせられた。確かに、二人の世代しか語れない学者(高津春繁、服部四郎、亀井孝、泉井久之助、井筒俊彦等)の話もあって、その話も大変興味深かった。

やっぱりお二人は激動の時代を生きてきただけあって、田中克彦のエスペラントの話や鈴木孝夫の井筒俊彦宅での書生時代の話など、とても興味深かった。当時は言語学は他の分野を引っ張って行った時代の香りみたいなのを持っていたはずで、言語学者のロマン・ヤコブソンが音韻論の分析に用いた二項対立という概念を持ってきたレヴィ=ストロースが『親族の基本構造』で構造主義ブーム(?)をうちたてたりした時代だった。

そうした時代の香りを知っているこのお二人からしたら、現在の状況は歯がゆいのかもしれない。日本の歴史の中で幸福な(不幸な?)言語学科が雨後のタケノコのようにできた時代もあったのに、今はその割りを食って言語学をやる人はそこそこいるものの、なぜか他の学問を引っ張るようなところまで行っていない。それをどう解決していくかは、今の言語学徒の課題だと思う。

これを機に、クロポトキンの相互扶助論が読みたくなった。いつか読もう。

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プロが教える外国語上達のコツ

千野栄一(1986)『外国語上達法』岩波書店

さて、中学、高校、大学と語学の習得に苦しみ抜いた私の方はどうなったであろうか。正直にいって、私はこれまで楽に外国語を習得したという経験は一度もない。現に今でも、苦しみながら新しい外国語に挑戦している。(本書 p.8)

考えてみると、英・独・ロシア・チェコ・スロバキアの五つの言語には翻訳されて活字になったものがあるし、外交官の語学養成機関である外務研修所で教えたことのある言語も、ロシア・チェコ・セルビア・ブルガリアの四つがあり、このほか大学では古代スラブ語を教えている。さらに辞書を引きながら自分の専攻の分野の本を読むのなら、フランス語、ポーランド語と、そのレパートリーは拡がっていく。(中略)しかし、何度も繰り返すようで恐縮だが、私は本当に語学が不得意なのである。(本書 p.11)

この本の著者は言わずと知れた言語学者、千野栄一である。最近では黒田龍之助などもそうだけど、スラブ系言語をやった人にはいろんな言語のできる人が多い。それぞれが近しい関係にあるので、一つをやれば後はさほど習得に困難が生じない、ということなんだろう(と言っても僕はスラブ系言語をまったく知らない)。そのため、千野栄一はあるいはポリグロットと言っても過言ではないと思う。

この本の中ではいろいろと述べられているが、語学上達に必要なのは辞書、学習書、教師であり、覚えるべきは語彙と文法とのことであった。独習者はいい教師に恵まれづらく、メジャー言語以外は日本語で書かれた学習書もないので、マイナー語をやるにもまずは英語やロシア語、中国語と言ったメジャー言語をやるしかない。

あと、一番大事なことが書かれてあった。それは「お金をかけること」。人間はとてもケチなので、お金をかけたら真剣になるということだ。だからシュリーマンは浮浪者に向かってヘブライ語を語りかけていたのか。

中身については啓蒙されることが多かったとともに、様々な言語学者のエピソードも面白い。もう全員が故人なので名前を挙げてもいいと思うが、S先生=木村彰一、H先生=高津春繁、R先生=河野六郎。この人たちはすごかったんだなあ、とまるで摩天楼を見上げる気持ちになった。