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分かりやすいアフォーダンス論

佐々木正人(2010)[2008] 『アフォーダンス入門』講談社

「光の集まりの束とその集合」として証明の事実を考えることで、ギブソンは、見るということが、一人の知覚者だけの一回きりの出来事として起こり、他のだれにも経験できないことだという常識を原理的に打ち破る道を開いた。(本書 p.95)

すべての光の集まりの束が埋めこんでいる構造はどれも、視覚がそこに何かを発見するための永続的な可能性として存在し続けている。(本書 p.97)

身体の制御の原型がこのようなものであると考えると、一つの事実があきらかになる。それは身体を制御するためには、筋も骨もいつも休みなく動き続けていなければならない、ということである。生きものの動きの制御はたえまなく動くことで達成されている。(本書 p.117)

アフォーダンス論については全く知らなかったので、勉強の足掛かりとして本書を読んだ。字も大きくていい本だ。

大学院時代にアフォーダンスにハマッている人がいて、何がこの人をしてそこまで魅惑させているのかと思っていたが、これを読んでひとつ思い当るところがあった。「光の集まりの束」であったり「振動の場」であったり「香りの場」であったり、場面の設定の仕方が光や音やにおいにあふれた魅惑的な場所に見えるのだ。

ただ、アフォーダンスはaffordからきていることでもわかるとおり、「~をすることが可能」であることを表す。この理論の誕生前の言語学において、すでに戦前の本で関口存男が『接続法の詳細』をはじめとした著書で展開した言語理論、意味形態論で彼は○○という語の用法についてよりも、人生にはかくかくしかじかの局面がある、その局面ではドイツ語ではどういうか、ということに重点を置いていた。その前者の視点こそアフォーダンスである。私は彼の言語理論に賛成で、言語学は個別の単語の使い方にこだわるのではなく、人生の局面においてどう表現するかに重点を置くべきである、すなわち、語のアフォーダンスよりも「考え方の筋道」に主眼を置くべきである、と考えている。

この理論の白眉はアフォーダンスを設定したことよりも、上記に引用した箇所にあるとおり、人間の身体をロボットのそれと同じような安定したもの(本書ではcoordinationとして紹介されている)ではなく、常にバランスがとれるように制御され続けているものである、と見抜いたことにある。静止している人間はstable(安定している)なのではなく、stabilizing(安定させている)なものなのである。そうして周囲の環境を認知しながら、こちらの姿勢もそれに合わせている。間断のない相互作用を見出したことに、アフォーダンス理論の可能性があると思われる。

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デパートという概念を発明した二人

鹿島茂(1991)『デパートを発明した夫婦』講談社

十九世紀前半までのフランスの商店では、入店自由の原則がなかったばかりか、出店自由の原則もなかった。つまり、いったん商店の敷居を跨いだら最後、何も商品を買わずに出てくることは許されなかったのである。(本書p.15)

極端な言い方をするなら、買いたいという欲望がいったん消費者の心に目覚めた以上、買うものはどんなものでもいいのだ。まず消費願望が先にあり、消費はその後にくるという消費資本主義の構造はまさにこの時点で生まれたのである。(本書p.70)

ブシコーが真に偉大だったのは、商業とは「商品による消費者の教育」であると見なしていたことである。(本書p.250)

著者本人がデパート大好きらしいので、その分気合いが入っている。19世紀のパリからどのようにしてデパートが誕生し、発展したのかを追っていった本。まさに題名通りデパートは出るべくして出てきたのではなく、1組の夫婦によって「発明」されたのだ。

田舎から出てきて丁稚を経てから独立したアリスティッド・ブシコーとその妻によって発明されたボン・マルシェ百貨店は正札販売、返品可能、宅配など、いまのデパートの販売体制の原型を作り出し、挙句の果てには御用記事まで新聞に掲載させた。

描かれるブシコーの戦略がまさに的を射ていて、次々に客が彼の手の上で踊らされるかのようにふるまう。正札販売、冷やかしOKというのも当時のパリでは画期的だったので人が来る、すると問屋を通さずに直接仕入れて大量購入、直接購入で原価を下げる、薄利多売路線をとる、日にちのたったものは価格を下げて販売する、といった販売戦略のほか、読書室やレストラン、清潔なトイレを設けるといった顧客満足の発想、売り場を担当させてその売り上げによって給与を変動させる、デパートの上に寮を作る、従業員専用楽団を作ってクラッシック音楽という教養を身につけさせるといった従業員教育まで、経営者としての彼の先手の打ち方はまさに顧客の心をつかむものだった。

変動の19~20世紀で似たようなエピゴーネンは出てきたものの、常にボン・マルシェ百貨店がその先陣を切っていられたのはなぜか。それはひとえに彼のスピードや演出まで含めた経営手腕にあったのだった。

これを現代に置き換えると、コストコやIKEAといった大規模な量販店、ショッピングモールに代表される複合商業施設が庶民の我々に「楽しみ」を与えてくれる場所となっている。これらがどこで発生したのか、あるいは誰の発明によるのか。そこにもまた、興味がわいた。

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インテリジェンス(諜報)を実生活で役立てる

佐藤優(2009)『野蛮人のテーブルマナー 「諜報的生活」の技術』講談社

ここでは6ヵ月後くらいに話題になりそうなテーマの本を積極的に集め、読むことにしている。(本書 p.20)

実は、何かを始めるときに、まず「終わり」について、決めておくことはとても重要なのである。(本書 p.91)

雑誌『KING』に連載されていた佐藤優の連載を集めて前半に、後半には鈴木宗雄、筆坂秀世、アントニオ猪木などの著名人との対談が掲載されている。

すべて実生活に役立てることのできるインテリジェンス(諜報)の世界でのコツをわかりやすく披露してくれている。本音を悟られずに情報をとる方法、引き際の美学、そんな陰謀術数の世界にも芽生える数々の友情。読んでいて非常に面白い。

イスラエルのモサドのお偉いさんが北朝鮮に乗り込んだ時、経由地のモスクワでは行動が漏れるのを恐れてトランジットホテルに滞在せずにずっと寒い機内にいて歯をカチカチ鳴らせて寒さに耐えていたとか、たった一人で、しかも公開された情報から北朝鮮に対する正確な分析を行った毎日新聞記者とか、新聞やテレビでは知ることのできない情報がいっぱい載っている。

気軽に読めて、発見がいっぱいというお得な本。

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大きな物語崩壊後に成長するデータベース

東浩紀(2001)『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』講談社

シミュラークルの水準における「小さな物語への欲求」とデータベースの水準における「大きな非物語への欲望」に駆動され、前者では動物化するが、後者では疑似的で形骸化した人間性を維持している。要約すればこのような人間像がここまでの観察から浮かび上がってくるものだが、筆者はここで最後に、この新たな人間を「データベース的動物」と名づけておきたいと思う。(本書 p.140)

非常に有名な本。いわゆるサブカルチャーをする場合には非常に参考になる本。

かつては作品があれば作者が舞台とした世界があり、作者が書く(あるいは制作する)ものしか受け入れられなかった。一方、オタクと呼ばれる人たちは作者が書いたもののパロディ(あるいはオマージュ)として二次創作をおこない、それらも同様に受け入れられている。甚だしくは作者自身がパロディ作品を作ったりしている。彼らにとって大事なものなのは作者が舞台とした世界ではなく、作者の描いた要素(萌え要素)である。読者の喜ぶ要素を押さえていれば、それは受け入れられる。こうした状況を様々な材料からある要素を組み合わせて作るという点で、筆者はデータベース的であると分析する。

こうした考え方は非常に面白い。2000年代初頭にこの本が書かれているのだけれども、こういう視点から行われている分析というのはいまだにあまりないのではないかと思う。筆者はこれをポストモダン的社会の特徴であると述べているが、あるいはポストモダン的社会以外でも使えるのではないか。これは要素のブリコラージュで、データベース(大きな非物語)の中にあるそれぞれの要素を持ってきてくっつけて、作品(あるいは小さな物語)を作り出すという考え方は様々に応用できると思う。言語の分析においても、書かれたり話されたりしている言語(小さな物語)からその奥にある要素の海(大きな非物語)へのアプローチを行うという方向があってもよさそうだ。

ホンモノがなくなったポストモダン的時代での、非常に有力な社会分析のアプローチが本書では簡潔に、かつ興味深い形で呈示されている。

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夢見の訓練を通して全てを悟る

カスタネダ, カルロス 青木保監修・名谷一郎訳(1993)『未知の次元-呪術師ドン・ファンとの対話-』講談社

 もうすっかりメスカリトの話は出てこなくなってしまった。カスタネダシリーズの第5弾。

 本書でドン・ファンは訓練の一端として、カスタネダに夢見の技術を教える。それはたまに手を見つめる、という訓練だった。手をみて、また別の対象をみて、それから目をまた手に戻す。それを繰り返す訓練をしていた。 これもカスタネダ関連の書籍ではよく言及される話なので、興味深かった。
 あとがきで青木保(文化庁長官)もすこし言及しているように、これはどちらかというと最初のフィールドワークっぽい作品から、明らかに文学っぽい作品へとシフトしている。そして、どうも真実味はないらしい。ということまで明らかにされている。

 だとしても、本書は読むに値する。なぜなら、ここですべての謎がわかるからだ。これまでの訓練の話も、師匠と恩人の話も、そして航空会社の支店に入ったらなぜか市場に出ていたというのも、すべてが一本の線で結ばれる。

 その答えはトナールとナワールにある。ドン・ファンにとっては世界はトナール(理性)の島であり、その島の配置を換えることが師の役割だという。ナワールはトナールの周りに控えているもので、これが理性以外の世界にあたる。カスタネダはずっとトナールの世界に籠絡され続けていたが、これまでの14年間に及ぶ修行で、ようやくトナールとナワールの両方を扱うことができた。

 ナワールの世界は楽しく、戻って来たくなくなるかもしれない。そこで戻ってくるにせよ、戻らないにせよ、それは戦士の選択である。とドン・ファンはいう。戻ってこれなかったら、もうそれはこの世では死んだことになる。彼がいつも死ぬ覚悟で臨めというのは、ここでも現れている。

 最後、カスタネダはナワールの世界に旅立つのだが、戻ってきたかどうか、その行方は杳としてしれない。