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レビュー 日本ノンフィクション賞

南方熊楠、渋沢敬三、新村出らとの交遊録

岡茂雄(1974)『本屋風情』平凡社

風呂場の外がわに下駄の足音が近づいた。「湯加減はどうかな」と翁の声。「結構です」と応える。しばらくするとまた足音がして「湯加減はどうかな」。「結構です」。繰り返すこと三回。わずか十五分か二十分のあ間にである。全く驚いた。私は他家の風呂をいただく機会はたびたびあったが、これほどまでに気を使われた経験はない。しかもそれが南方翁である。感激しないわけにはいかないではないか。(本書 pp.41-42)

私が碧梧桐に揮毫を頼んだ時、「私の書く看板を掲げた本屋は、たいがい潰れるが、それでもいいですか」といわれ、「かまいません」と応えたけれど、何とそのとおりになったのは笑止である。(本書 p.268)

民俗学、人類学、考古学専門の書肆である岡書院、山専門の梓書房を営んでいた岡茂雄のノンフィクション短編集。題名は柳田国男の一言に依る。柳田と筆者の仲がこじれて、渋沢敬三が仲裁をすべく会食を開いたが、後日「なぜ本屋風情を呼んだのだ」と言った(らしい)ことから、本書は名付けられたらしい。

そもそも陸軍幼年学校から陸軍士官学校を出て将来を嘱望された軍人だった岡が、なぜ一念発起して出版業を始めたのかは本書に詳しく書かれていないが、彼のような人が出なかったら、世界的にもかなり早いといわれるソシュールの『一般言語学講義』の翻訳やその他の貴重な出版物が後世に残らなかったのだから、その恩恵に浴している我々は、深く感謝せねばならない。

時代もあってか、本書に出てくる人たちがたいへん高名で、またその意外な一面に驚く。熊野の田舎に蟄居していて、わざわざ会いに来た人でも気が向かなかったら会わないが、自分がすいた人にはとことん筆まめ、それでいて照れ屋の南方熊楠。気持ちに波があって、自分から謝ることのできない意固地な柳田国男。表には出さないけども、いろいろと難しいところのある金田一京助。質実剛健という感じで学問の育成に援助を惜しまなかった渋沢敬三。そして出版界の指南役として岡の相談相手にもなってくれた岩波茂雄。こうした人々の、いわゆる公の側面でない、私的な側面の性格が見られるエピソードが満載で楽しめる。

新村出が安倍能成に頼まれて小林英夫を京城帝国大学にやったとか、広辞苑の編集には新村、柳田、金田一の他、橋本進吉や小倉進平にまで話が行ったこと、長野の駐屯地に徴用されて旅館に投宿して仕事をしていたら折口信夫が訪ねてきたり、自分の書肆名を河東碧梧桐に揮毫してもらったり(碧梧桐については石川九揚『書の終焉』にも記載あり)、梓書房には日本百名山の深田久弥が出入りしたりと、出てくるのはそうそうたるメンバー。やはりこれは岡の旺盛な仕事への情熱から生まれた輪なのだろう。ちなみに、終戦間際に軍務を頼まれたのは終戦の日に自決する阿南惟幾陸軍大将(終戦時は陸軍大臣)の依頼によるのだが、これは陸士時代の縁によるものとしても、おそらくは円満退官だったのではないかと想像される。

後に京大総長になる濱田耕作や、事件を起こした清野謙次との知遇も得ており、こうした日本の一流学者との付き合いがあったからか、本屋としての「分をわきまえる」ことをかなり意識している。今の感覚から見たら、少し遠慮しすぎではないかと思える。プロデューサーとして、もう少し遠慮を取り払ってもよかったのではないか。でも、そういう時代だったのだろう。

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レビュー

なぜ人は南に向かったか

岡谷公二(2007)『南海漂蕩-ミクロネシアに魅せられた土方久功・杉浦佐助・中島敦』冨山房インターナショナル

荒俣宏によると、加藤は、「魚類研究に熱中していた昭和天皇のために、パラオの熱帯性海水魚類十尾を生きたまま水槽にいれて空輸、ついに天皇の許に届けるという快挙(?)を達成した」由である。

本書 p.184

久功は、南洋に居続けた場合の敦のあるべき自分の姿だった。

「……小さなリュックサックを背負って村はずれの道を歩いていくと、芋田に行くらしい母と娘が、椰子の葉で編んだバスケットを抱えて向うからやって来る。たちまち娘が大げさな表情で、パラオ語で話しかけてくる。wそして二言三言冗談を言って別れて行く。すると敦ちゃんが、君、いまのは何と言ったの、ときく。そしては、いいなあ、いいなあ、と言うのだった」(「敦ちゃん」)

と久功は書いている。

本書 p.195

南へ行った日本の画家・文人たちの中で、久功、佐助を含め、日本の社会や文化のありようを激越なまでに批判した者はひとりもいない。たとえば、久功の南洋行の動機は、彼自身日記に記したように、寒さを嫌い、ゴーギャンの影響、考古学や民族学への関心、原始的なものへの好みの四つであって、そこには、表立った日本批判に類するようなものはなにもない。だから彼は、昭和十七年一月、中島敦とのパラオ本当めぐりから久し振りに戻ったコロールの町が兵隊たちで一杯なのを見て、敦とともに帰国することを躊躇なく決意するのであり、そして、自分をはずかしめた、という意識に悩むことなく、三十余年にわたる後半生を、東京郊外の一隅で、心静かに暮らすことができたのである。

本書 pp.27-28

鹿島茂の『馬車が買いたい!』は、小説から当時のフランスの田舎に住んでいる若者たちがどうやってパリに行き、なぜパリに、何の目的で向かったのかを明らかにしている。

これを南洋でできないものか。すなわち、当時南洋を目指した日本人は何を考え、何の目的で向かったのか。土方久功をはじめとする芸術家のほか、最後までどうやらパラオになじめなかった中島敦、パラオ熱帯生物研究所の生物学者や南方の言語に興味を持っていた言語学者の泉井久之助など、何が彼らをして南方に向かわせたのか。それを明らかにしてみるのも面白いのではないかと考えていた。だが、動機が動機である。エピゴーネンにしかならないだろう。そう思っていた。

まさかそのアプローチがすでに、美術史の専門家によってなされているとは思いも知らなかった。何の気はなしに手に取った本に、なぜ土方をはじめとする芸術家が南に向かったか、ゴーギャンをはじめとするヨーロッパの芸術家たちとの違いは何か、彼らは南で何を見たのか。それを様々な資料を縦横無尽に用いて縦糸と横糸から全体像を紡ぎだしている。

一番の見どころは、パラオで大工をして生計を立て、のちに土方について独学で彫刻を学び、銀座での展覧会に際しては高村光太郎をして「恐るべき芸術的巨弾」といわしめた杉浦佐助のエピソードである。印刷だけされてほとんど頒布されなかった彼の自伝や地元の人々のエピソード、地元に残る彼の作品等を通しで彼の人生を描き出す過程には、著者の執念と愛を感じる。

南洋に向かった彼らの動機はさまざまで、また感じ方もさまざまであったが、当時のかの地においては土方氏を中心としていろんな人が交わる、サロンのような雰囲気があったのだろう。小さな社会だからこそあり得た話のように思えて、うらやましかった。

それにしても、荒俣さんはいろんなことに詳しいなあ、と感心した。

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サントリー学芸賞 レビュー

東京の建築を再発見

藤森照信(1986)『建築探偵の冒険 東京篇』筑摩書房

「こないだ古本屋で買った建材メーカーのカタログに、使用例として聖蹟記念館って変な楕円形の建物が載ってたでしょ。あれ、場所がわかんなかったけど、色々考えたら京王線の聖蹟桜ヶ丘の駅と何か関係ありそうなんだ。ちょっと探しに行かない」
痛いところを衝いてくる。あれなら私だって行きたい。娘よ許せ!(本書 p.10)

ブザーを押すと、使用人らしい人物が出てきて、こちらの申し出を当然ながらハネつける。こんな申し込みをいちいち聞いていてはお金持ちの身がもたないから当り前の反応だが、こちらとしても、このまま夕暮れの土手を引き下がっては探偵の誇りがもたない。
 さっき、丘を遠回りしたのが役に立った。敷地の東の斜面は小川で周りの田んぼと切り離されているから、ここだけ塀が作ってない。田んぼの畦道づたいに歩いてから川を渡り、斜面をはい上れば、敷地の中にはいることができたはず。(中略)
 しばらくしのんだあと、首筋のあたりに殺気を覚えてふり返ると、芝生の向うの端にさっきの使用人が現れた。手に太いヒモを持ち、その先にはデカイ犬がいる。建物は好きだが、犬は嫌いだ。両者は同時に相手に気づいた。(本書 pp.16-17)

たとえば、一つ論文を書こうと思ってある西洋館を見に行くと、まず未知の物件と遭遇するんだという高揚感があり、その高揚感で眺めるアプローチ風景の新鮮さがあり、そして実物を見た時の勝手な印象があり、さらに勧められるまま古いソファーに腰を沈めるときの肌ざわりがあり、最後に、対座した持ち主の口から飛び出してくる逸話の面白さがある。このように、日がな一日、見たり聞いたり触ったりしながら建物と一緒の時間を過すのだが、その全体験のうち学術論文という形で掬える部分はごく少量で、五感が味わった現場ならではの興奮も家にまつわる逸話もほとんど落ちこぼれてしまう。まあそれでも最初のうちは、<アカデミックということはそういうことナンダ>と頭で決めていたが、しかしそのうち、目玉と肉体が納得しなくなってしまった。(本書 p.325)

文句なしに面白い! こちらもサントリー学芸賞受賞作。建築探偵となった藤森センセイが東京都内のあちこちの建築を見て回るノンフィクション。いま、彼のようなやり方で見て回りと、確実に通報されて国家権力の御厄介になる。女子大構内への入り方も指南されているが、この程度のやり方だと、今ではすっかりガードマンに追い払われてしまう。世知辛い世の中になったと思う。が、この藤森さんは上記の犬に追いかけまわされた話や、そっと忍びこんで建物を楽しんでいたら、室内から悲鳴が聞こえてきたという話(そりゃあ、裏庭に知らない人がいたらびっくりするよね)があって、かなりヤバイことをしているなあと、今の感覚をもってすれば、思う。

この本は、読んでいる時もうっすら疑問を感じていたが、いわゆる専門書、学術書の類ではない。これは上記の引用(本書のあとがきにあたる)にご本人が書かれている通り、論文やアカデミックな業績からは抜け落ちてしまう、見過ごすには惜しいものを集めたものだと言える。そのため、文章は読みやすいし、タッチは軽い。いま、人類学ではそうしたフィールドワークで抜け落ちてしまう生の面白さをどうアカデミックな形で回収していくかが問題になっているけど、こうしたアカデミックからは距離を置いた形で、一般への啓蒙や楽しい読み物という形で残す方法もひとつの道であることを、本書は示している。

子供より古書が大事と思っている鹿島茂をはじめ、やっぱり学者は子供を放ってでも自分のテーマを追ってしまう。このすべてを打ち込む姿勢に、私のような読者は笑いとともに引き込まれてしまう。

本書はバブル期に至るまでの時期に行われた調査の記録であり、不審火があった後にすぐに不動産屋がやってきて、ぜひビルにしましょう、と言いだすとか、そうした今では見られなくなった行いが書かれている。この例からもわかるとおり、当時建築探偵が歩いて記した箇所は、もうほとんど残ってないようだ。東洋キネマも、神田界隈の看板建築も、そして東京駅ですらいまは工事中になってしまった。

もう少し本書を早く知っておけば。東京建築ツアーを、ぜひ楽しみたかった。