中国人は快楽に向かう?


竹内実(2009)『中国という世界-人・風土・近代』岩波書店

-チュウゴクはどうなるのですか。
たしかに、興味のある問題である。
ひとから質問されるまでもない。自分でもすぐには答えが見つからない大きな疑問で、自縄自縛になる。問題を設定するもの難しい。
(本書 p.3)

初代のイギリス領事、バルフォアは、「条約」が締結されると、とり急ぎ上海に赴いたが、ホテルなどあるはずはない。県城内に家を借りて住むうち、知らない他人が入りこみ、好寄の眼をかがやかせて、自分の一挙一動を見守るのに気が付いた。
家主の姚(タオ)という広東人が、入場料をとって見せ物にしていたのだった。
(本書 p.162)

中国を知るための入門書です。比較的薄くて読みやすいですが、これまで中国を全く知らなかった人も、中国を何度か行ったことがある人も、学ぶところのある本になっています。

著者は本書の中で中国の向かう先は「快楽」であると述べています。集団で旅行してポーズを決めて写真を撮る、爆買いをする、といった中国人の一側面を考えても、集団で楽しく過ごすという側面から考えたら彼らの思考様式が理解できるかもしれません。それが、周りにとっていいかどうかはさておいて。

翻ると日本はどうでしょうか。団体旅行も減りました。みんなで騒ぐことも、中国と比べて少ないように感じます。もう一つの対立軸として、「快適」が見いだせるかもしれません。

日本は「快適」な国です。ネットも自由だし、高速の自動改札やテレビゲーム、ウォシュレットが開発されたのも日本です。宅配サービスも早いし、アニメや漫画などのサブカルもすそ野が広いです。いずれもみんなで楽しさを共有するものというより、個々人のストレスを軽減する、一人で楽しむものです。大勢で快楽を共有するとともに、個人の快適を追及する方向に行っているのではないでしょうか。

中国は快楽に向かう、という考え方は確かに一つの見方だと思いました。

私も中国に赴任するときに買いました。



言葉は相手の暮らしを知ってこそ分かる


青木晴夫(1998)『滅びゆくことばを追って -インディアン文化への挽歌』岩波書店

一度、リズおばさんの義弟に、キイチゴを取りに行こうと誘われたことがある。彼のジープに乗ったところが、そのあとが勇ましかった。(中略)七十いくつのおじいさんとは思えない猪突ぶりである。わたしは身体髪膚これを父母に受けたけれども、きょうのイチゴ取りが終わって帰り着くまでは、相当毀傷したようだ。(本書 p.131)

涼しい高原のティーピーで一週間を楽しく過ごした経験のあるわたしには、この暑い谷間に移住をしいられ、異文化のかたまりのような文化住宅で窒息しているおばあさんの姿がこの上なくみじめに見えた。(本書 p.199)

名著である。千野栄一が『ことばの樹海』(レビューはこちら)で絶賛していた消滅の危機に瀕する言語を記録する言語学者のエッセイだ。

文章からにじみ出てくるおもしろみは、著者の個性が出ている。冒頭に引用した箇所なんて孝経の「身体髪膚これを父母に受くあえて毀傷せざるは孝の始めなり」のパロディがさらりと出ている。

カリフォルニア大学の言語学教室で研究をしていたある日、主任教授から「ネズパース語を調査する気はないか」と持ちかけられたことから著者の話は始まる。車を借りて2泊3日、現地調査の始まりだ。まずはモーテルを決め、紹介してもらった人やたまたま知り合った人のおばさんなどをあたってインフォーマント(調査協力者)を決めていく。午前にインタビューを行い、午後はノートの整理。そうして少しずつ言語を記述していく。記述言語学の王道ともいえるべきやり方だ。カードゲーム用の机の上にはノートなど軽いものしか載せられないから、レコーダーは床に置いた、などと書いてあって隔世の感がある。著者の時代は電源式(コンセントにつなぐ!)テープレコーダーを使っていた。

著者のメインの仕事は言語の記述だが、本書の面白みはそれに附随する調査協力者との交流だ。一緒にタルマクスという一週間、遠い山に行って行うお祭り(だけど当時はもう宗教キャンプに成り果てていた)に参加してネズパースの人たちの暮らし方を体験したり、リズおばさんとキャマス(野草の根っこ)を取りに行ったり昔話を教えてもらったり。言語の調査はその言語を使う人々の暮らし全体を理解してこそなしえることがよく分かる。

インディアンの人たちは面で暮らしているから道なき道を進むけど、白人たちは線で暮らしているから道路から少しそれた集落のことは全然知らない。だから同じ土地に住んでいても、インディアンと白人の交流は意外と少ない。その間を著者が取り持つようになったのは、先住民と学界をつなぐ記述言語学者としての役割をも持つ著者だからこそなしえたのだろう。少し足りないぐらいで終わっている分量も、余韻があってまたいい。


知の格闘技としての名画


高階秀爾(1986)『名画を見る眼』岩波書店

このような新古典主義の「理想美」の美学に対し、ロマン派は、はっきりと人間ひとりひとりの感受性を重んじた「個性美」の世界を対置させた。「美」とは、万人に共通な唯一絶対のものではなく、人によってさまざまに変化し得るものだという考え方である。(中略)万人に共通するものではなく、逆に万人にはなくて自己にのみ秘められているものを追求し、発掘することが、芸術の目的となったのである。(本書 pp.144-145)

従来の絵画表現をすっかり変えてしまう近代絵画の革命は、マネによって幕を開けられることとなるので、クールベは、思想的には急進派であったが、画家としては、ルネッサンス以来の絵画の表現技法を集大成してそれを徹底的に応用した伝統派閥であった。(本書 p.172)

芸術は難しい。芸術家に「どのように見ればいいのですか?」と聞いたところで「皆さんがお好きなよう見ればいいんですよ、フフンッ」と返されて、はあそうですかというしかなくモヤモヤ。そんな感じで取り付く島もない芸術を分かりやすく解説してくれる。

解説の裏側には美術史と当時の風俗、それに画家たちの伝記まで読み込んだ知識がさらりと織り込まれている。一級の解説をポケットに入れて持ち運べる喜び。まさに開眼させてくれる書だ。

たとえばラファエロの「小椅子の聖母」。サーチエンジンで調べればいくつでも画像が出てくる有名な作品だ。何も知らずに見ると普通の写実的な絵画だ。しかし著者の目を通すと奥行きが出てくる。まずは衣装の色。キリスト教の図像学では聖母は聖母愛を象徴する赤と真実を象徴する青をまとって描かれる。だからその絵でも赤い上衣と青いマントが描かれる。さらにひざの上のイエスの服を黄色にすることで、赤青黄の色の三原色を配置し安定感を出している。加えて妙に不安定な聖母の姿勢。低い右ひざにイエスをのせて左ひざをあげる不安定な姿勢をしている。この不安定な姿勢こそ、聖母からイエスの顔、左ひざという視線の流れと聖母の肩から右腕、イエスの体といったそれぞれの形を組み合わせて安定感を出すために必要なのだ。その不安定な左ひざを隠すために、あえて右奥にヨハネを配置し、不自然さを打ち消している。

名画とは画家の鑑賞者に対する挑戦であり、鑑賞者の画家に対する挑戦である。絵画は数百年のときを経ても繰り広げられる知の格闘技であり、カンヴァスはその場を提供してくれる舞台なのだ。


歴史をつくった負け組みたち


山口昌男(2005)『「敗者」の精神史〈上・下〉』岩波書店

覚馬も結局は、公の世界に足を突っ込む権威高官の地位に身を置かないという意味では、敗者の立場を貫いたと言えるのかもしれない。覚馬なくば、京都は学問の府の位置を獲得することなく、影の薄い第二の奈良というにとどまったかも知れない。このような覚馬に対して与えられたのは、従五位という位であった。(本書上 p.319)

薩長閥を中心に原型が形成された、近代日本の単一階層分化社会による学歴・政治・経済の堅い組織が行きづまりを見せている今日、薩長閥的官僚機構から排除されるか、一歩外に出た人士が形成したネットワークは、人は何をもって他人とつながるかという点で示唆するものが極めて大きいと言わなければならないだろう。(本書下 pp.442-443)

歴史に残る負け組みたちの話である。もともとユリイカに連載されていたものだけあって、学術書っぽくはない。しかし、ここにこそ山口昌男の博覧強記ぶりがいかんなく発揮されている。

本書の言う敗者とは、明治維新後に賊軍となった幕府側の人たちを指す。政治的な配慮から、彼らは明治新政府で重用されず、公的に活躍する場は与えられなかった。

しかしそこは幕臣、優秀な人材も多かった。戊辰戦争で負けた会津藩出身の山本覚馬は同志社を作ったし、静岡に逃げた徳川家臣の一人、渋沢栄一は近代日本の土台を作った。

学問のヒエラルキーをつくる近代科学とは相いれない、学問の曼荼羅を形成する本草学をはじめとする江戸的学問を推し進めて、鳥居龍蔵や柳田国男に疎ましがられた山中共古など、公ではない私の世界で、政財界ではなく市井で存在感を示した人たちが多くいた。

実力ある人は一つの世界で重用されなくても、別の世界で活躍の場が見つかる。そして、ネットでつながった今こそ、あらたな活躍の方法があるのではないだろうか。著者は明治維新後に敗者がもう一つの日本をつくったのに、なぜ戦後はそれが起きなかったかいぶかしがるが、それは当然、明治維新では国内に勝者と敗者ができたが、第二次大戦では一億総敗者だったから、国内でヒエラルキーができなかったのだ。逆に格差社会の今こそ、負け組の巻き返しを図るタイミングだと言える。

この本の特徴として、引用が多いのが気になるが、ほとんどが古書店でしか手に入らない本からのものゆえ、それもやむなしなのかな。


国境線が無いまま700年。大国家ローマ帝国が30年で自壊した理由とは?


南川高志(2013)『新・ローマ帝国衰亡史』岩波書店

現代的観点からすれば、特定の民族にこだわらない寛大な措置と見えるかもしれないが、そもそもローマ人は「民族」という考え方を19世紀以降のような特殊な意味で理解していなかった。皇帝たちは彼らの実力を認め、重用した。「特別の事情」でもない限り、彼らを退ける理由はなかったのである。(本書 p.156)

ローマ帝国は外敵によって倒されたのではなく、自壊したというほうがより正確である。そのようにローマ帝国の衰亡を観察するとき、果たして国を成り立たせるものは何であるのか、はるか1600年の時を隔てた現代を生きる私たちも問われている、と改めて感じるのである。(本書 p.207)

ローマ帝国は紀元前3世紀から5世紀後半(476年)にかけてローマを中心に強大な力を誇った帝国である。その領地は現在のスペイン、イギリス、ドイツ、ギリシャ、トルコ、そして北アフリカにまで及ぶ。北欧などの一部を除いて、全欧州を手中に入れていた。

本書はローマ帝国が栄華を極めてから衰退していく過程を分かりやすく描いている。ローマ帝国はイタリアを統一したローマ人たちが領地をどんどん広げていった。

その際、彼らが行った方法は地元有力者と「共犯関係」を持つことだった。地元有力者をローマ軍に入れることにより、彼らをローマ人として扱ったのだ。いざというときローマ軍として戦ってくれたらいいだけだから、平時は割りと自由だった。軍隊は国境警備をせず、国境区域(ゾーン)を設けて、そこでの商取引を自由にさせた。

ローマ帝国で高い地位といえば、文官、武官や元老院議員がいる。当初、血統主義でエリートの地位が受け継がれていたが、家系が途絶えるとイタリアや属領の地方から有能な者をエリートに登用した。そんな空気があったからこそ、偏狭の地のドナウなどでも有能な者があればエリートに登用された。もともとローマ人でなかった者が司令官や皇帝になり、生まれながらのローマ人を率いた。

それほど、栄華を極めたローマ帝国は寛容だった。

ローマ帝国が斜陽を迎えたのは4世紀後半である。東からフン族の流入し、その地に住んでいたゴート人が隣接するローマ帝国の地方武官に助けを求める。迎え入れるほうは彼らに食料を提供するどころか、高値で売りつけ、こともあろうにゴート人の司令官の殺害まで企てる。ローマ人の対応に怒りを覚えたゴート人が、フン族とともにローマに攻め入った。そのとき、同時にブリテン島など他の地方でも蛮族の襲来を受け、対応しきれなくなったローマ帝国は一気に崩れてしまう。

本書を読む限り、ローマ帝国の自壊には多くの偶然が重なっていたようだ。皇帝の地位をめぐる内紛、東や北から偶然の同時多発的な蛮族の来襲。歴史にイフはないが、どれも少しずつタイミングがずれていれば対応できたかも知れない。

本書では自壊の原因の一つに寛容さの喪失を挙げる。かつてはローマ人として扱われた辺境の地の人たちも、ローマ人と同じ言葉を話し、格好をした。しかし後年、ローマ人として扱われても蛮族の格好をしたまま町を歩く人々が増えた。そこから、よそ者への目が厳しくなり、蛮族とローマ人の軋轢が深まっていった。筆者はこの軋轢こそが、ローマ帝国自壊への引き金になったと見る。

しかし、ここで疑問が出てくる。なぜ軋轢が生じたのか。辺境の人たちがローマ人の格好をしなくなったのは、ローマにそこまでの威光を感じなくなったからに違いない。なぜそこまで威光が落ちたのか。そこにローマ帝国自壊の序章があるのではないか。史料的な限界があるとはいえ、気になった。


沖縄から離れない影


大城立裕(2011)『カクテルパーティ』岩波書店

やっぱり卑怯だ」小川氏が叫んだ。「そのような話にそらして、いま当面の話題からにげようとしている」 「そうですね」孫氏は、ほとんど涙ぐみながら、「ただ、あなたがたが当然考えるべくして考えてなかったことを言ったのだということも事実です。もちろん私が正しかったとはいいません」(本書 p.211)

亀甲墓、棒兵隊、ニライカナイの街、カクテル・パーティとその戯曲編の5部構成の、沖縄を舞台とした短編集。筆者も沖縄人なので、沖縄文学である。前半から後半にかけて、戦中から戦後へと時代は下っていくが、それでもなお沖縄戦や軍隊といった問題がずっと横たわる。はじめの2本は鉄の暴風雨といわれた沖縄戦のさなかの話で、名士といわれた人に野菜泥棒をさせたり、無辜の市民の犠牲を望む軍隊など、極限状態にまで追い込む戦争の無情さを描いている。

一番の見所は芥川賞を受賞したカクテル・パーティだろう。舞台は一見平和そうに見えるカクテル・パーティ。そこに中国語を話す仲間として軍属の米国人に中国人とともに招待された日本人。本人がカクテル・パーティに楽しく出席している間、娘は裏座敷を貸していた米国人とドライブに行き、襲われる。不公平な法の下、男は犯人を裁くため告訴を決意する。いっぽうで友好的なカクテル・パーティを行いながらも、やはりそこには乗り越えられない壁がある。40年以上前の小説だが、その壁はいまでも沖縄に存在し続ける。国、民族、法律、友人と複雑に絡まり合う関わり合いにどう折り合いを見つけていくのかは、読者にも一考を迫られる。


グアムを通して日本人を知る試み


山口誠(2007)『グアムと日本人-戦争を埋立てた楽園』岩波書店

帰国後の横井氏をめぐる報道が過熱していくと、「生きていた英霊」横井氏は、時が経つにつれて説明不要な有名人「ヨコイさん」という固有名を獲得し、奇妙な言行で知られるキャラクターとして扱われるようになった。(本書 p.36)

ここで問題なのは、「日本人の楽園」とGuamの間のズレではない。ガイドブックとその轍が複数存在すれば、必ずズレは発生するだろう。ズレを橋渡しする回路がないまま、お互いに無関係な「グアム」とGuamが並存している現状が問題なのだ。(本書 p.155)

グアムに行く日本人は年間100万人に及ぶ。そんな身近なグアムと日本人の「関わり方の歴史」を書いたのが本書だ。戦時中は大宮島と呼ばれ、ほんの短い間だけ日本の統治下にあったグアムは、今はリゾート地として「消費」されるだけだ。それは近年始まった現象ではない。戦後二十数年しか経っていなかった1970年代には、すでに始まっていた。横井さんがジャングルの中、一人で戦争を継続していた同じ時期に、数十キロ先では日本人の新婚カップルが続々とハネムーンにやってきていた。

グアムにはスペイン統治時代を経て、アメリカ、日本、アメリカと宗主国が変わった歴史とともに、先住民族チャモロの人たちの暮らしなど、複雑な歴史を持つ。そんな中、なぜ日本人は歴史を見ずに、ショッピングとビーチのリゾートである「グアム」だけしか見なくなったのか。英語圏のガイドブックには歴史について書いてあるにもかかわらず。本書はそこに、グアムの観光開発の歴史(西のハワイ、新婚旅行のメッカ宮崎の延長)を見る。

本書ではグアムが政治的にまとまらない理由についても考察している。アメリカ人であるグアムの人々には連邦法により納税の義務等を課せられている。しかし大統領をはじめとする国政選挙権はない。それを要求する勢いも、逆に分離独立する勢いも、今のグアムは持っていない。それは周辺の島々(ロタ、テニアン、サイパンとミクロネシア連邦か?)やフィリピンから来た低賃金で過酷な仕事に従事する人々と、軍施設などで公務員として仕事をしているチャモロ人との間の軋轢があるため、団結する力より離反する力のほうが強いからだと説く。アメリカに差別的待遇を受けているグアムが周囲の島々を差別する。この構図は本土と沖縄と奄美と似ている。

本書はグアムについてもっと知りたい人には良い導きの手になる。日本語でここまで書かれた本は数少ない。ショッピングとビーチの楽しいリゾートという側面しか知らなかった人にとっては衝撃を与えるだろう。道路修復を優先されて再開されない博物館、グアムの中にすら存在する格差、誰も死なない(死ねない?)島。小さな本の中に、グアムの「暗部」とも言える根深い問題が見えてくる。


これからのメディアを知るために


佐藤卓己(1998)『現代メディア史』岩波書店

書物は19世紀半ばすでに「旧いメディア」と見なされていた。大衆社会到来の400年前にメディアとして完成した書物が、大衆を前提としていないのは当然であった。(本書 p.43)

労働者文化の伝統があるヨーロッパと違って、アメリカの移民労働者たちは共同体的娯楽から切り離されていた。教養を必要としない映画鑑賞は識字能力の未熟な移民労働者や青少年にとっての格好の「安息の場」となった。(本書 p.102)

書物、ラジオ、テレビといったメディアがどのように発展してきたのかを日米英独の比較を通して描き出している。

ここ数百年、人は書物を古いメディアと言い続けてきたが、いまだに生き残っているし、それが駆逐されそうもない。いつの時代も書物は危機を喧伝されながら生き延びてきた。

注目に値するのは、国家と人々の関わりだろう。かつてのメディアはラジオにしろテレビにしろ、大きな資本力を必要としていた。そのため、国家主導で開発され、イデオロギーを浸透させるために使われた。戴冠式をテレビ中継した英国にせよ、ラジオで戦況を伝えていた日独にせよ、国は異なれどやっていたことは同じだ。

しかし一方、比較的少ない投資額で済んだ雑誌と映画は民間主導だった。それが国民に憩いの場、公共への参加の糸口、娯楽を与えたのだった。

テレビを最後に国家がけん引するメディアは終わった。ネットや携帯を使ったメディアの登場は、いよいよ大衆主導型メディア時代の幕を開けた。これからは国家に導かれるのではなく、大衆の興味や関心が世間を導く。ネットを見てると世間が分かる。かもしれない。


雑誌じゃないよ超雑誌『キング』


佐藤卓己(2002)『キングの時代』岩波書店

雑誌メディアは、読者対象を細分化することによって発展するものであり、(中略)つまり、細分化可能な領域が存在する限り、雑誌は「専門化」していくことになる。(中略)こうした個別雑誌による読者の細分化、分節化が完成した段階で、『キング』は階級、年齢、性別を超越した国民統合メディアとして構想された。(本書 p.145)

「国民」とはそれほど消極的かつ受動的な読者だったのだろうか。売上部数の著しい伸張を見る限り、戦況を伝える雑誌に国民は殺到した。膨大な購読者に情報操作の犠牲者、メディア被害者としての免罪符を与えることは、大衆政治における政治的無関心や情緒的行動がもたらした結果に対する国民一人ひとりの責任を不問にすることにほかならない。(本書 p.342)

かつて『キング』(講談社)という雑誌があった。その名の通り雑誌界の王として君臨した。1925年創刊、1957年終刊、日本で史上初めて100万部を突破したオバケ雑誌である。

当時より人口の多い2013年現在、一番売れている月刊誌は文藝春秋の58万部、週刊誌でも週刊文春の70万部であることからも、その名に負けないキングぶりがわかるだろう。

我々と同様、著者も疑問に思う。「なぜそれだけ売れたのか」。しかも、当時の知識人、文化人たちはキングを毛嫌いしていた節がある。じゃあ、逆に何故それだけ売れたのか。どこが読者に受け入れられたのか。

キングの発行年をみてピンと来た人は鋭い。当時の日本は雑誌の揺籃期~草創期だったのに加え、ラジオ放送(1925年)、テレビ放送(1953年)も始まったばかりだった。 この疑問に対する分析の枠組みを、著者は自らの体験から編み出す。即ち、これまでは雑誌や新聞といった媒体ごとに分析する研究が多かったのだ。しかし、雑誌や新聞はテレビやラジオといった他の媒体とリンクしながら消費されていた。これまでの見方では、他のメディアとの関わり合いという観点を取りこぼしていた。 通常、雑誌は読者対象を細分化するメディアである。講談社もそうした雑誌を持っていた。男性、婦人、少年、少女と対象を絞った雑誌のラインナップをそろえた上で、それらを統合する国民雑誌『キング』をリリースした。

いろんな人に読ませる雑誌であったこと、いろんな人を満足させるだけの中身があったこと、まさに「ラジオ・トーキー的雑誌」だ。

大正デモクラシー、普通選挙と参政権、国家総動員体制、ラジオ・トーキー・テレビの誕生。歴史の荒波の中でキングは雑誌界に君臨し、100万部の栄華を極め、33年で幕を閉じた。キングと時代の共存を緻密に描き出している。

当時、大衆を対象とした講談社文化の対立軸として、インテリを対象とした岩波文化が挙げられた。大衆誌のインテリ的分析を行った本書がその岩波書店から出ているのにも、また歴史の妙を感じてしまう。


経済学を学ぼうと思ったら


佐和隆光(1982)『経済学とは何だろうか』岩波書店

アメリカには夥しい数のビジネス・スクール(経営学の大学院)がある。ビジネス・スクールの卒業証書である経営学修士(MBA)の肩書きが、この国でビジネス・エリートたるための不可欠の資格証明とされている。
(中略)
こうした学習が、経営者としての実践的手腕に資するところは、たとえあるにしても、はなはだ僅少であろう。実のところ、ビジネス教育が実践に役立つか役立たないかは、どうでもよいことなのである。要は、ビジネス教育というものが、これまた一個の<制度>として社会的に容認されていること(中略)こそが、ビジネス・スクールの隆盛のゆえんなのである。(本書 pp.65-66)

完成された学問をなるべく速やかに、しかも正確に習得できるようにするのが、「教科書」の目的である。学問の発展過程における試行錯誤、歴史的背景、学説の草創期における論争、著者の人間性などはいずれも、教科書にとっては夾雑物ないし枝葉末節であるとして、きれいさっぱり取り払われてしまう。教科書の篇別構成は、学説史的展開の順序はほとんど無関係に、易しいものから難しいものへと、論理的かつ単系的に配列される。(本書 p.82)

結局のところ、経済理論が掛け値なしで「有効」でありえたのは、なんらかの「政策」を論駁するという役柄においてのことであった。もちろん、ある政策を論駁することが、オールタナティブな政策の「支持」を意味することを否定する気はない。しかし、その「支持」は、あくまでも消極的な支持にすぎないのである。(本書 p.203)

これまで経済学とは何か知らなかったのだけど、この本を読むとどういう特色があって、他の社会科学とどう違うのかがよくわかる。

産業革命の際に起きた科学の制度化を契機に、経済学は離陸する。世界恐慌の端緒となったアメリカの大恐慌でフーバーの反介入主義と均衡予算主義をモットーとする古典派的経済学を実践し、直後にルーズヴェルトはニューディール政策で介入主義、積極的支出政策、いわゆるケインズ政策を行った。そして戦争下に人間社会の現象を数学的に解析するという営みに参加した数学者から、計量的経済学者が生まれる。その後は、引用した教科書化や大学院・学会の拡充による制度化がなされて、コンスタントにエコノミストが排出される土壌が出来上がった。

しかしやはり理論はオッカムのかみそりで、現実を捨象したものとなり、現実に適用するには多くの変数を付け加えて美しくなくさせなくてはならない。その適用と失敗の繰り返しで理論は現実の近似値に近づくんだろうけど、しかし現実も同時に変化しているため、これはイタチごっことなる。そのため、学問にできるのは、経済学に限らず、畢竟論駁することだけとなる。という指摘はいまだに現代性を失っていない。

wikipediaに書かれてあった「著書『経済学とは何だろうか』では、トーマス・クーンのパラダイムの概念を新古典派~ケインジアン~新古典派総合~ルーカス反革命という一連の経済学説の流れにあてはめて見せた。」という一文に興味をひかれて読んでみた。

クーンへの言及で最も注目すべきは、或るパラダイムを基準にして問題が決められるため、その問題が解決されないのはパラダイムではなくて科学者が悪いのだ、としている点である。そのため、経済学において現在もまだ問題が残っているのは、ひとえにパラダイムの問題ではない。経済学者の問題であり、今を生きる我々の問題なのだ。