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経済学を学ぼうと思ったら

佐和隆光(1982)『経済学とは何だろうか』岩波書店

アメリカには夥しい数のビジネス・スクール(経営学の大学院)がある。ビジネス・スクールの卒業証書である経営学修士(MBA)の肩書きが、この国でビジネス・エリートたるための不可欠の資格証明とされている。
(中略)
こうした学習が、経営者としての実践的手腕に資するところは、たとえあるにしても、はなはだ僅少であろう。実のところ、ビジネス教育が実践に役立つか役立たないかは、どうでもよいことなのである。要は、ビジネス教育というものが、これまた一個の<制度>として社会的に容認されていること(中略)こそが、ビジネス・スクールの隆盛のゆえんなのである。(本書 pp.65-66)

完成された学問をなるべく速やかに、しかも正確に習得できるようにするのが、「教科書」の目的である。学問の発展過程における試行錯誤、歴史的背景、学説の草創期における論争、著者の人間性などはいずれも、教科書にとっては夾雑物ないし枝葉末節であるとして、きれいさっぱり取り払われてしまう。教科書の篇別構成は、学説史的展開の順序はほとんど無関係に、易しいものから難しいものへと、論理的かつ単系的に配列される。(本書 p.82)

結局のところ、経済理論が掛け値なしで「有効」でありえたのは、なんらかの「政策」を論駁するという役柄においてのことであった。もちろん、ある政策を論駁することが、オールタナティブな政策の「支持」を意味することを否定する気はない。しかし、その「支持」は、あくまでも消極的な支持にすぎないのである。(本書 p.203)

これまで経済学とは何か知らなかったのだけど、この本を読むとどういう特色があって、他の社会科学とどう違うのかがよくわかる。

産業革命の際に起きた科学の制度化を契機に、経済学は離陸する。世界恐慌の端緒となったアメリカの大恐慌でフーバーの反介入主義と均衡予算主義をモットーとする古典派的経済学を実践し、直後にルーズヴェルトはニューディール政策で介入主義、積極的支出政策、いわゆるケインズ政策を行った。そして戦争下に人間社会の現象を数学的に解析するという営みに参加した数学者から、計量的経済学者が生まれる。その後は、引用した教科書化や大学院・学会の拡充による制度化がなされて、コンスタントにエコノミストが排出される土壌が出来上がった。

しかしやはり理論はオッカムのかみそりで、現実を捨象したものとなり、現実に適用するには多くの変数を付け加えて美しくなくさせなくてはならない。その適用と失敗の繰り返しで理論は現実の近似値に近づくんだろうけど、しかし現実も同時に変化しているため、これはイタチごっことなる。そのため、学問にできるのは、経済学に限らず、畢竟論駁することだけとなる。という指摘はいまだに現代性を失っていない。

wikipediaに書かれてあった「著書『経済学とは何だろうか』では、トーマス・クーンのパラダイムの概念を新古典派~ケインジアン~新古典派総合~ルーカス反革命という一連の経済学説の流れにあてはめて見せた。」という一文に興味をひかれて読んでみた。

クーンへの言及で最も注目すべきは、或るパラダイムを基準にして問題が決められるため、その問題が解決されないのはパラダイムではなくて科学者が悪いのだ、としている点である。そのため、経済学において現在もまだ問題が残っているのは、ひとえにパラダイムの問題ではない。経済学者の問題であり、今を生きる我々の問題なのだ。