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死は救いか、無か?

中村 じゃあ、むしろ死は救いだと思いますか?

佐藤 それも思わないですね。死によってフェーズ(段階)が変わるということです。ちょうど子どもから大人に変わるのと同じようにね。その程度の感覚です。

本書 p.23

中村 しかし、生きることのほうが苦しいですよ。今回の死の体験で思ったのは、死は絶対的な「無」なんだなってね。つまり、痛くもないし、なんにも感じないわけですから。無感覚なんですよ。

本書 p.105

死ぬほどつらいけど怖くて死ねない、という人は多いと思います。

作家の中村うさぎは心肺停止で「臨死体験」をしました。目の前が突然真っ暗になり、すべての苦痛から解放されたそうです。以前からマンションにいては飛び降りたいと思ったり、もともと死ぬことに恐怖を感じていなかった彼女は、よりいっそう死ぬのは楽と思うようになりました。佐藤優は自殺することはないし、家族と猫のために生きているけれど、おそらく自身は病気で死ぬだろうと述べています。

イスラム教のジハード、ベトナム戦争中の僧侶の焼身自殺など、自殺を完全に禁止していない宗教は多くあります。しかし、現代の日本では自殺はよくないこととされています。拡大再生産を繰り返す(マーケット規模がだんだん大きくなっていく)社会で、自殺者を抱えるとその目的が達成できなくなるからです。

自殺する人としない人の違いは、何か超越的な(神様のような)ものを信じているか。自身の人生が「天と自分」との関係であるかどうかです。そういう発想を持っていると、自分がやったものごとを整理しようという気になるのでは、と佐藤は指摘します。

前回の投稿で指摘した通り、人間が生きる理由は根源的には「あなたは生きなければならない」というトートロジー(同語反復)になります。しかし自分のやったことにたいして時間をかけてでも責任を取ろう、と発想の転換をすることこそが、少しの希望につながるのかもしれません。

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聖書や古典で生き抜く力を身につける

中村うさぎ, 佐藤優(2013)『聖書を語る』文藝春秋

中村 あれ(筆者注:村上春樹『1Q84』)がヨーロッパでなぜウケると思うの?
佐藤 それはヨーロッパ人が抱えている物語不在の状況を、かなり等身大で表現しているからです。そんな成果が、ヨーロッパ的な伝統からうんと離れた日本でなぜ生まれたのか。それは村上春樹さんがヨーロッパの小説・学術文献をよく読んでいて、それが村上さんの思想にしっかりと受肉されているからでしょうね。(本書 p.86)

佐藤 (前略)考えてみれば、我々がタイムマシーンに乗って五百年前に帰ったら、適性とか市場とかいっても「何だ、そりゃ?」っていう感じになるわけですから。
中村 そう、一過性のものなんだ。
佐藤 ですから、五百年以上前の想像力を持つことができるかどうか。その想像力を持つことが出来るのは、文学を通じてしかないんです。(本書 p.163)

佐藤 ただ、人間はモノや概念には結集できないんですよ。やはり池田大作さんでないと創価学会はまとまらないし、大川隆法さんがいないと幸福の科学はまとまらない。(本書 p.186)

佐藤優と中村うさぎの対談。村上春樹から東日本大震災、福島の原発事故まで、世の中の「大事件」について対談している。二人ともキリスト教(プロテスタント)なので、必然的にキリスト教的な神の話題で盛り上がる。

二人からすれば、やはり3.11の東日本大震災は日本人にとって大きな意味を持っていたという。小さな事件の後には大きな、何か終末を予感させる事件が起こるという。チェルノブイリのあとのソビエト崩壊がそうだし、今回は原発事故だという。震災直後、政府が機能しなかったにもかかわらず、人々は互いに助けあい、東電の社員は被曝を覚悟しながら事故処理にあたった。こうした行動は近代経済学が前提とする「合理的」な人間にはあてはまらない。

人は合理性を超えたところで助け合わないと生きていけない。

口には出さないが、日本人はうすうすそのことに気がつき始めたのだ。農村の地縁や血縁でつながっていた前近代から、デカルトが「私」を発見し、拡大家族の核家族化にのような集団から個を重視するほうにシフトした近代、その流れが小さな集団から個人へと究極に小さくなっていき、個が孤になっていった現代。そんな閉塞感を持っていたときに起こった大地震で、人はやはり一人では生きていけないと悟ったのだ。

そこで佐藤は誰か母性的な人の下にみんなが集まることを提唱する。自然の力に勝てないとわかった以上、力で対抗するんじゃなくて状況に応じて柔軟に対応できるような形の生き方を考えるべきだ、と。

集団と個の考え方について、中村うさぎはエヴァンゲリオンの「人類補完計画」と村上春樹の『1Q84』を引き合いに出す。人類補完計画は集団に戻れという前近代的な発想だと思ったけど、それが投げかける問い(人はどのように生きるか)は非常に現代的だ。

二人の対談を読んでいても、伝統的宗教はやっぱり強いと思う。排他的ではないし、人が生きるということにまじめに向き合っている。宗教が怪しいかどうかを見極めるには、その団体の施設がアポなし訪問を受け入れてるかどうかを見ればいい、と聞いたことがあるが、そういう意味ではキリスト教は非常に間口が広い。

それと同時に、歴史を生き残ってきた分、やっぱり強い。古典の勉強を「何に役立つの?」と聞く人がいるが、それはナンセンスなのだ。いますぐ役立つ知識なんてすぐに役立たなくなる。三百年前はすぐに役立ったであろうわらじの編み方や「早飛脚をもっと早く使う五つの方法」なんていうのは、今となっては役立たない。しかし、何に役立つかわからない仏教や神道といった宗教は、いまだに当時の知識も使われる。人がどう生きるかについて考えるとき、制度や権力によらず、人間として生きるときに本当に重要なのは、すぐに役立たないように見えるが、人間の「変わらない部分」について考える基礎となる知識作りなのだ。

対談ではとりわけ、努力は報われるかどうかという話が面白かった。カルヴァン派(長老派)の佐藤は「神様のノートには生まれる前から選ばれた人の名前が書いてあるから、個人が努力してもしなくても結果は変わらない」という。個人の努力で世界が変えられるなんて、おこがましいと考えるからだ。一方、バプテスト派の中村は「そんなの納得できない!」と質問を浴びせる。佐藤は「納得できないからこそ(理屈を超えてるからこそ)、そこは信じるしかない」という。うまい答えだ。