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テロから密輸、財閥運営までやるイランの秘密警察

宮田律(2011)『イラン革命防衛隊』武田ランダムハウスジャパン

一九七九年五月、イラン革命の直後に成立した革命防衛隊は、宗教的イデオロギーを強く訴え、イスラム共和国では最も強力な組織として機能し続けている。この組織は、宗教的性格を強くもつという点で、世界でも例がない軍隊である。(本書 p.22)

シーラーズの市場でぼくの腕をつかんだ彼らは、革命防衛隊だったのか。

イランには二つの軍隊がある。正規軍と革命防衛隊だ。正規軍は旧王制が有していた軍隊で、イラン革命のあと、新政府は彼らを信用せず、新たに自分たちの軍隊、革命防衛隊を組織した。これは当時、アメリカ大使館占拠メンバーでもあったアフマディネジャド大統領の出身母体でもある。

本書ではその革命防衛隊について、筆者の中東での調査と、米英の報道や公式資料から丹念に迫っている。

イラン国内には革命防衛隊とたもとを分かった左翼防衛隊モジャーヘディーネ・ハルグなどの組織もあって、国内組織を叩くために空爆をしているとか、実はドバイはイランの貿易の玄関口となっていて、正規も非正規もどっちも取引が行われてること、革命防衛隊の粛清では90年代でも生き埋めが行われていたことなど、知らないイランがいっぱいあった。

また、シーア派の力を広げるため、イランは革命防衛隊をイラクやシリアに派遣し、訓練を施している。筆者の分析によると、アメリカがイランを攻撃した暁には、イラク以上の惨事となり、各地でアメリカ軍や親米国家の関連施設、イスラエルや同国関連施設が狙われる作戦が立てられているらしい。

本書の理解にはイスラム国家に対する理解が必要となる。イスラム国家では国家以上にクルアーン(コーラン)に忠実かどうかを決める法学者の地位が高い。そのため、法学者がそのイスラム性を否定すれば、国家もなくなってしまう。これがイラン革命だった。そのため、国家に属する軍隊と、クルアーン(コーラン)に忠実な軍隊が共存する。本書では宗教的性格を強くもつ、世界で例がない軍隊と述べているが、国家に属さず、イデオロギー的性格を強くもつ軍隊であれば、他に中国の人民解放軍(中国共産党の軍隊)と朝鮮人民軍(形の上では、国防委員会が最高軍事指導機関だけど)がある。これらを想起すれば、まだ想像しやすい。

事実と分析を書いた書であって、思想的な面にはほとんど触れられていない(十二イマーム学派の説明が少しある程度)。そのため物足りなさはあるが、現段階で得られる資料としては有益だ。イランに対する見方も変わる。

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修辞学以前のレトリック

リチャード・A・レイナム 著/早乙女忠 訳(1994)『雄弁の動機-ルネサンス文学とレトリック』ありな書房

レトリック的人間は生来、単一の価値体系ではなく、複数の価値体系に支配される。つまり単一の世界観を信奉するのではなく、眼前に展開する現実の問題に専心する。レトリック的人間は熱心党にはなれない。創造的思考、新たなる認識の体系に無縁な人間なのだ。レトリック的人間は、現実を発見するのではなく、それを操作するように訓練される。彼にとって実在は、一般に現実として受容されているもの、また有用なものに限定される。(本書 p.16)

レトリック的人生観は、いたるところでシリアスな人生観を脅かす。(中略)西欧的自我はその当初から、レトリック的人間とシリアスな人間、あるいは社会的自我と中心的自我の、変わりやすくつねに不安定な結合から構成された。(本書 p.18)

レトリック的な座標軸とシリアスな座標軸は、両極限の状態である。シリアスな現実からすれば、過去にはさまざまな出来事が存在し、過去から遊離した現在という地点に立つ人物が、出来事の内容を人に語ることが可能である。レトリック的現実の場合は、それとは異なり、一切が現在である。それゆえこれら(筆者註:シェイクスピアのヘンリー諸王劇)四篇の芝居では、登場人物が真に演劇的な自我であり、単に過去に固定されている限り、彼らは真に過去に生きる。同時にその存在はたえず流動しているのだから、まさに現在しか認識しえず、彼らが演ずる劇は現在の時間の中に存在する。(本書 p.264)

本書はこれまでの西欧理解に新たな側面を付け加えてくれた。

西欧には元来、「かくあるべし」という真面目な(シリアスな)態度と「こう読めるよね/ぼくはこう読むよ」というレトリック的な態度があった。

だから戯曲の長いセリフも、シリアスな人たちは「この文章は明晰である」という前提のもと、文章の意味と、さらに深い読みをしようと試みる。

レトリック的人間は違う。彼らは人の心を動かし、不透明である現実の不透明さをさらけ出すため、言葉の美しさをたたえるため、幸せや悲しみを表すために、レトリックを用いるのだ。

衣装を考えてみたらよい。被服の本来の役割は寒さに耐えるため、身を守るためだった。そこに、自分をきれいに見せるためという、元来の役割に別の役割が付け加えられた。言葉もそれと同じである。物事を伝えるための「もの」的言葉のほかに、どういう文脈を紡ぎだし、事実をどう位置付けるかという「こと」的言葉があったのだ。「社会的自我」であるシリアスな人間は社会的に容認されるような言い方や意味付けを考える。「中心的自我」であるレトリック的人間は自分の快楽のために言い回しや道理付けを考える。

この二つの見方があると知ってこそ、中世文学の見方が変わってくる。そして、西欧への見方も変わってくる。レトリックな文脈をシリアスに読むことは無粋だし、逆もまた然りだ。それと同時に、この見方を知ることで主観対客観という西欧が有する二元論の根深さも理解できる。

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コセリウの考えを知るために

エウジェニオ・コセリウ著/田中克彦・かめいたかし訳(1981)『うつりゆくこそことばなれ』クロノス

構造主義は変化(改新の拡散)を転化(別の構造による構造の置き換え)と同一視し、古いのと新しいのとの二つの構造がならび存しているすべての中間段階を無視する。(本書 p.178)

ソシュールの中には、(中略)数々の矛盾ともめぐりあう。これらの矛盾は、かれの採った観点に起因するばかりではなく、かれの学説のいくつかの本質の側面からも生じてくるのである。すなわちa)いたずらに言語の状態と言語そのものとを同一視してしまったこと。b)言語を「出来上がった体系」、つまりエルゴンとする考え方、さらにc)言語をデュルケーム的な「大衆」というつかみようもない雲の上に追いやってしまったことである。それはプラトン主義を一まわり小ぶりにした亜流であり、これによって言語と具体的な言語活動との分離がもたらされた。(本書 pp.206-207)

ソシュールは、ラングはパロールを通じて変化するものだと教え、さらに、変化の初発の瞬間は「採用」だと見ている。それにもかかわらず、(中略)ラングの中には「状態と状態との間に生ずる変化の居場所はどこにもないのである。(本書 p.209)

共時態を無視することは、まさに時間の中に継起するところの言語を無視することになり、対象の外に立つことを意味するからである。部分は全体から、一段階は全過程から切り離すことができるのと同じ意味で、言語史の一時点は、他の時点を考慮することなく記述できる。しかし、全体の記述は部分を無視することはできないし、過程の記述は、その一つ一つの段階を無視することはできない。おなじくまた「体系化」の研究は、まさにこの体系化そのものの各瞬間を無視し得ない。(本書 p.230)

英語で論文を書かなかったせいか、英語圏ではあまり有名でないらしいコセリウの著書。日本では有名なはず。

本書は題名からわかるとおり、エネルゲイアとしての言語について焦点をあてたもの。すなわち、言語は完成された動かないものではなく、常に変わりつつあるものであるという、フンボルトのあの考え方を念頭に置いたものだ。

ソシュールやメイエといった有名な文法家たちの考え方を批判し、彼らの考え方の齟齬と、あるべき見方について論じられている。具体的には

  • ソシュールはラングを重要視したが、本来重要視されるべきはパロールとその集合体であるランガージュであること
  • ソシュールの提示した共時的と通時的な分け方は、あくまでも分析ためであって、言語がそのような二面性を持っているわけではないこと

である。

前者については最近のマクロは本当にあるのかという議論にも通じるし、実態として把握できるのは実際に話されている言語であり、言語の変化を決めるのはその言語の話者たち(ランガージュの担い手たち)であるという指摘はもっともである。

後者の視点は、とても面白い。これはトマス・クーンの『科学革命の構造』でも論じられていたけども、変化とはじわじわ起こるものではなく、ある時急に起こる。それは科学のパラダイムにしても、言語の構造にしても同じである。この点を指摘したコセリウは見事だし、やられた、と思った。

多くの言語学者は言語の変化をゆっくりと漸進的に行われると思っているのだが、それは実は違う。日本語も七つか八つの母音があったのが、いまの五つの母音になったのは、徐々に二つの母音が一つに融合していったのではない。おそらく六つの母音の体系が出現し(改新)、しばらくは六つの母音の体系と以前の体系が併存していたが、ある瞬間に大多数の話者が六つの母音の構造を選択し(拡散)、構造の変化が起こったのだろう。現にコセリウはヨーロッパの言語の音韻構造を持ち出して、その実例からこの理論を導き出す。しかし逆は必ずしも真ならず。たとえある時代のある言語で二つの母音が融合したからと言って、同じ二つの母音が存在する言語において、同じく融合するとは限らない。ただ、融合する可能性があると指摘できるだけだ。

そう考えると、結局比較言語学って何なんだろう。言語の変化の道筋を描いてきたけれど、それは単に可能性の指摘だった。やるべきはやはりサピアの言ったように、ドリフト、すなわち改新と選択の志向を探り当てることなのだろう。

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数少ない日本語で読める文献学入門書

中島文雄(1991)『英語学とは何か』講談社

実に国家は現在において具体性を保持する限りの最大の生命単位である。しかもその特殊なる統一性の意義のため歴史の主体として最も適当な単位であって、これが国史の存在理由である。(本書 pp.117-118)

フィロロギーとしての英語学はどこまでも歴史的である。それは決して材料の年代順の記述ではない。歴史的生活に即しての言語の考察である。シェイクスピア時代の言語状態は当時のルネッサンスの空気に影響されて華やかにしかも混乱した時代相をそのまま反映している。英語史家はまず文化史的に当時の言語状態を認識しなければならぬ。 シェイクスピアはこの時代にあって言語を駆使した。彼の言語は社会的制約を受けているとは言えるが、その中にあって彼自身の言語を選択する自由は彼にあった。彼は自己の個性に従って言語を使用し、自己の体験を表現に持ち越してきゃかん的存在とし、それを通して再び時代の現在と未来との流れに投げ返した。ここに歴史的意義がある。そこを明らかにするのがフィロロギッシュな研究である。(本書 p.194)

看板に偽りあり、と言いたくなる本だ。

題名からすると「英語学」について書いてある本かと思いきやさにあらず。いわゆるEnglish Linguisticsではない。English Philology(英語文献学、とでも訳せようか)とは何かについて書いてある本だ。そしてまっとうなことに、まずはPhilologyとは何かについてを延々と語り、その中の英語に限ったPhilologyとその意義について語っていくたいへん見通しが良くなる本である。

Philologyとはすなわち、文献を通じてある人々の世界の見方を知る(認識の認識、と著者はいう)ための学問である。彼らがどのように暮らしていたのか。その解釈方法として公的生活、私的生活、宗教、芸術etcと暮らしを要素に分類していき、それぞれに解釈を加えていく。要素同士の関係は批評と言われるものだけど、それは難しいのでひとまずはおいておき、まずは解釈から入る。その際に一番大事なのは文献を読むことであり、当時の言語の解明であった。そのために今でいう言語史や比較言語学という分野が重用されるのだ。

なんで比較言語学なんていう微に入り細を穿つような、気を見て森を見ないような学問があれだけ盛り上がりを見せたのかは僕にとっては長年の謎だったのだけど、この本でそれが氷解した。確かに比較言語学はパズルのようで面白い。しかしそれは学者の知的遊戯であって、誰も幸せにしていないのではないか、と思っていたら、そもそも人文学の遠大な目標の第一歩だったのだ。

もちろん、ここで射程に収めているPhilologyはとても広い分野を対象とするため、一人では行いきれないから、分業制を行う。ある者はドイツ語フィロロギーを、そしてある者は英語フィロロギーを、という具合に。

もはや最後のほうにある生成文法の説明なんかいらなかったのではないかというぐらいに、前半部分の記述は濃厚だ。逆に生成文法の記述箇所よりも現代性を有しているといえる。結局プロトタイプ意味論とか認知言語学とか、いまだに言語学は遠大な目標を見失った、分業のための分業をしているのではないか。

国家という概念が揺るぎ始めたこの時代に、言語学の世界でも20世紀には言語連合という概念も出てきたことだから、もう一度「国家を基礎としないPhilology」を再検討する必要があるのではないか、などいろいろと考えさせてくれるきっかけとなった本だった。

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労働理論の総まとめ

今村仁司(1981)『労働のオントロギーフランス現代思想の底流』勁草書房

認識といえども人間が社会関係の中でおこなうひとつの世界獲得形式であるというのがマルクスの基本的な立場である。いいかえれば、認識は人間が世界とかかわる社会活動の一領域である以上、認識活動は社会的実践過程の一局面でしかない。社会的行為の基礎概念をわれわれは労働とよぶ。したがって認識は基礎的労働を構成する一モメントとなる。(本書 p.24)

多くの唯物論者たちは、「生産」活動を唯物論的世界観の基礎だと主張してきたが、実際には、かれらはイダリスムの基礎概念を称揚してきたにすぎない。「生産」(超越、対象化、客観化……)こそイデアリスムのエレメントであるから、観念論的世界観の根拠づけを「生産」に求めるイデアリスト(例えばヘーゲル)の主張は、きわめて正当である。唯物論者たちは、観念論者たちと「生産」概念の争奪戦をくりかえしてきたわけであるが、原理的にいってその勝負の結末は眼に見えている。言うまでもなく、唯物論者たちの負けだ。(本書 p.219)

今村仁司の訃報では、代表的な著書として挙げられていた『労働のオントロギー』。僕は『暴力のオントロギー』や『儀礼のオントロギー』などは読んだものの、本書は読んだことがなかった。いや、読んだことがなかったのではなくて、一度読もうとして、最初のアルチュセールのところで挫折したのだ。文庫で出た『アルチュセール全哲学』を上滑りながら読み終え、数年のスパンを開けて本書をひも解いた。働いている人には読んでもらいたい本だ。

本書の構成は、最初にマルクスの労働のフランスでの研究概況を見るため、ルイ・アルチュセール、コルネリウス・カストリアディス、ミシェル・アンリの思想について概観し、その問題点を克服していく。それで三章を使い、第四章からはそれらの批判を加え、問題点の克服を試みる。社会をもろもろの生産活動としてみる(本書 p.201)アルチュセール、線形の変化をする「生産」と非線形の変化をする「創造」の一半を明らかにしたカストリアディス、超越の根拠としてライプニッツのモナド的な生を持ってきたが、モナドゆえに社会的関係をとりこぼしかけているアンリ。彼らの理論を継承しつつ、どうくみ上げていくかを今村は課題としているが、中でもアンリの非対象化の導入を称賛している。

すなわち、フーリエの言うように労働には「いやな労働」(travail repugnant, industrie repugnante)と「楽しい労働」(travail atttrayant, industrie attractive)があり、前者は分業を行う対象化活動だが、後者は分業を廃棄した非対象化活動である。すなわち「異質性を同質化する活動ではなく、異質な諸活動を異質なままに実現する根拠としての活動」(本書 p.258)である。そこではアソシアシオンという社会的つながりが求められる。すなわち、生産されるモノ(対象)ではなく、つながるコトが第一となり、それこそが快の源泉となるのである。

今村仁司も翻訳にかかわった『ドイツ・イデオロギー(抄訳)』で妙に印象に残った「朝には狩りをし、午すぎには魚をとり、夕べには家畜を飼い、食後には批判をする」という「悪名高い箇所」(本書 p.249)も本書では引用がされ、そこまで批判するものではない、という見方が呈示されている。このころから、今村はブレていない。

哲学もしなければ経済学者でもない我々が本書を読んで身につけるべきは、「いやな労働」と「楽しい労働」の比率をいかに変えていくかということ。前者の量を減らすのは努力だけでは限界がある。それでは後者を増やすことを考えればいいのではないか。人間とは周りとかかわって生きていく生物なのだから、そのかかわりを大事にして、分業を廃棄してその人らしさを発揮(全体的個人の表出)し、生きていくように、すなわちプラスを増やしてマイナスを凌駕していくようにするのも一つではないか。

言うことはもっともだけど、実践は難しいよなあ、と思う。難しいといって匙を投げずに努力しよう。

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聖と俗に振れる宗教

ヒューム, デイヴィッド、福鎌忠恕ほか訳(1992)[1972]『宗教の自然史』法政大学出版局

人々の誇張された賛辞や追従が、それでもなおこれらの諸力についての人々の観念を膨張させる。そして彼らの神々を完全性の最極限まで高揚させて、ついに統一と無限、単一性と精神性の属性を産み出す。このような繊細な観念は俗衆の理解にそもそも対応していないので本来の純粋性に長い間とどまってはいない。そして人類とその至高神の間に介在する下級の介在者ないし従属的な代理者の概念によって支持されることを要求する。これらの半神半人ないし中間的存在は人間本性により多くあずかり、またわれわれにいっそう親密なので、敬虔の主要な対象となり、小心で貧窮した人類の熱烈な祈願と賛辞によって、以前に追放されてしまっていた偶像崇拝教をしだいに呼び戻す。(本書 pp.53-54)

来世の信仰により顕示された快適な視野は、忘我的で歓喜にあふれている。しかしそれは、宗教の恐怖の出現とともになんとすばやく消滅することであろう。この恐怖は人間精神をより強固に、より永続的に占拠するのである。(本書 p.105)

本書は佐藤優がアーネスト・ゲリナーの『イスラム社会』を絶賛する中で言及した、ヒュームの振り子理論が掲載されている本である。

要は一神教は素晴らしい、多神教はまだまだレベルの低い連中が信じているから、相手にしないでいい。そもそも多神教って、神々は一体だれが作ったのさ?ってことになるでしょ。というお話。そのため、多神教の本場、ギリシャのお話がいっぱい出てくる。一神教の立場からしたら論理的に多神教を受け入れないのもわかるし、ギリシャの放恣な神様と日頃の倫理を比べたらぜんぜん違うから、乗り越えるべき矛盾があるのもわかる。ただ、そこに21世紀の、そしてキリスト教徒でない者が読むべき現代性があるかどうかは微妙なところ。

肝心の振り子理論にしても、ゲリナーが書いてある通り、まずは身近なところに神々を見つけて、人々は多神教、偶像崇拝に走る。そこから、それらの神々や偶像の創造者に心をとめるようになり、すべてを支配するただ1つの神を信じるようになる。そうして洗練された一神教が出来上がるが、あまりにも洗練されすぎたために多くの大衆はついていけず、身近な神の代理人を作り出す。そしたら神の代理人がまた直接信仰を集めて多神教になり…の繰り返しというお話。

この振り子理論、面白いんだけど、結局2次元的な往復でしかない。ヘーゲルのいう弁証法は3次元的な螺旋のはずで、そのほうが理論としては面白い。しかしこの場合、一神教を克服したうえで多神教になるのかと思ったら、前提が蒙昧な俗衆なので、一神教を信じていたころのことを忘却して、また多神教、偶像崇拝を始めて元の木阿弥に戻るとみなしているんだろうから、たぶん振り子でいいんだろうと思う。

でもやっぱり、理論としてはヘーゲル的弁証法の3次元(螺旋)のほうが面白いし、現代性があると思う。

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暇がなくても読書をする方法

鹿島茂(1993)『暇がないから読書ができる』文藝春秋

大学の授業や雑用のほかに、新聞・雑誌に雑文を月に百枚以上は書いているので暇はまったくないのだが、なぜか、読書量は、書評のためのものを除いたとしても、急激に増加しているのである。だいたい最低でも、月に三十冊くらいは読む。(本書 pp.179-180)

これまた忙しかったせいもあり、鹿島茂の書評でも読んで気を紛らわせようとしたところから、本書を読み始めた。いつも書評を読むと思うのだけど、世の中には僕の知らない本はもちろんいっぱいあって、その中の相当数がこれまた面白そうなのに、なぜか寿命は長くないということ。

本書はやっぱり上手に面白そうな本を紹介しているのだけど、あとの方になるとほめてばかりで、多少はけなさないとこの人はなんでもほめるんじゃないかと思えてきてしまう。だから暇がないとか文句を言いつつも本を読んでは感想を書いている前半の方に好感をもった。

本書で紹介されている本でも、知らない本ばかり。でも確かに本屋に行ってみればおいてある本もまだまだ多い。サイパンに行くときにも本を持って行ってちゃんと読んでいたり、フランスの古本屋めぐりをするっていうのに十冊も本を持っていったりと(これは半ば仕事のため)、本当にすごい人だと思う。本は重いので、はっきり言って旅行の邪魔なのだ。しかし本がないと移動中にすることがなくなってしまう。このジレンマを解決する方法は、ぼくはまだ見つけていない。

逆に言うと本を読むしかないわけで、台湾のように人懐っこい人たちがいる国では、列車や飛行機の中で隣の人と話すこともあるけれど、アメリカの国内線なんかは機内サービスもないわフライト時間は長いわで、本当に何もすることがない。ネットもできないしパソコンを開くのも大仰だ。そう、本を読むしかないのだ。

そのためには、書評でも読んで読みたい本をピックアップするというのも、ひとつの手なのだ。

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世界はドーダで満ちている!

鹿島茂(2007)『ドーダの近代史』朝日新聞社

ドーダ学というのは、人間の会話や仕草、あるいは衣服や持ち物など、ようするに人間の行うコミュニケーションのほとんどは、「ドーダ、おれ(わたし)はすごいだろう、ドーダ、マイッタか?」という自慢や自己愛の表現であるという観点に立ち、ここから社会のあらゆる事象を分析していこうとする学問である。(本書 p.5)

普通の基準からすると、こうした人間はありえないような気がする。だが、私は語学教師の端くれなので知っている。兆民のような純粋の語学バカ、シニフィアン人間は実在すると。語学と言うのは、その才能がある人間にとって、生きていくことの支え、おのれの自尊心をくすぐる立派なドーダ・ポイントともなりうるのである。(本書 p.239)

最近仕事が忙しかったのもあって、すいすい読める本を探していた。たまたま、千夜千冊で紹介されていたのを読んで、これを読もうと思った。そこに書いてある通り「ドーダの超論理というのは、べつだん難しいものではない。学問でもないし、高遠なものでもない」のである。ただ分厚いので読みごたえはあるし、鹿島茂のこと、やっぱり読ませる。

本書は幕末の時代に跋扈したドーダさんたち、「マイッタか!」と相手に自慢したいがために、頑張ったり頑張らなかったり斜に構えたり死に物狂いになったりする人たちの系譜を紹介している。

僕は松岡正剛とは逆で、最初のころの陽ドーダよりも後半の陰ドーダ、内ドーダに興味を持った。中江兆民をシニフィアンの人(書いてあることよりも、外国語の響きにひかれて語学の上達を一身に願った人)と述べているあたり、語学者として大変共感を覚えた。そこがシニフィエの人へ転換したかどうかの真実性についてはともかくとして。基本的に三つ子の魂百までなので、シニフィアンの人はシニフィエへの転向を目指したとしても、やっぱり限界があるし、シニフィアンへの思いはそう簡単に断ち切れるものではないと思うから、ここは保留にしている。

しかし、兆民とルソーの思想的バックグラウンドを対比しだすあたりからは、鹿島茂らしい細かさを持ち出して来て、さすがだなあと思わせた。

最近の文脈に照らしてみると、絶望の国でも幸せに生きる若者たちは陰ドーダなんだろう。すなわちa×b=1の図式に於いて、a=内面、b=外見として、外見にお金をかけないし興味もないフリをして、bを減らした結果、自動的にaが上がる。すなわち「そんなことより内面さ」と斜に構える風潮、これが今はやりの内ドーダである。もはや消費を知らない世代な上に、将来に不安だらけだから仕方ない。

世の中にはいろんなドーダがあって、結局人はドーダに籠絡されつつ生きるしかない。では今の時代、どうやって幸せに生きるのか。本書に少し述べられていた、人のいいボンクラを上に据えて、徳のない秀才を輔弼に据える、というのが一つの可能性で或る気がする。

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言語活動の諸相を見る

ハイムズ, デル・唐須教光訳(1979)『ことばの民族誌』紀伊國屋書店

言語学における説明の目標は、人間の心の普遍的特質におかれ、現在の社会言語学的視点の興味や妥当性は拒否されているのである。
しかしながら、アメリカの言語学においては長期間にわたる強調の変化が起こっていて、社会学的なかかわりあいからの撤退の様相は、部分的で一時的である事が判明するかもしれないのである。(本書 p.109)

多くの人類学者と同様に、多くの言語学者は、人間のどの集団をとりあげても、文明の最高度の達成が本来的に不可能であるような集団はいないと考えている。(中略)発展途上国の教育相で、どの言語においても、どんなことでも言ったり、読んだりできるという考えの人はいないのである。時間と、お金と、意思があればそうでありうるということは、現実の状況を語っていることにはならないのである。(中略)テキストに見出される言語の機能に関する一般的な考察は、典型的には、言語の多様な素晴らしさという形で見出されるのだが、そんなものはくずにすぎない。(本書 p.264)

本書は下のリンクにもあるとおり、原題はFoundations in Sociolinguistics: An Ethnographic Approach(社会言語学の原理: 民族誌的アプローチ』)である。

問題意識としては、従来のアメリカの構造主義言語学と言われる学問では、あくまでも言語の体系(文法)を記述することに情熱を注いでいた。それは滅びゆくインディアン諸語の記録をとどめるという必要性からなされていたため、時代の要請であったともいえる。

その趨勢に加えて、戦後はチョムスキーの生成文法が出てきてしまった。上に引用した109ページの箇所は直前にチョムスキーを引用していて、敬意を払いつつも、ほかの方向性を呈示している。すなわち、言語の仕組みそのものの分析に深く分け入っていくのではなく、人と言語のかかわり、当該社会や集団内での言語の位置づけを考えるため、どのような状況において発話がされるのかを分析する必要があることを訴えたのだった。音素、音韻から形態素の分析を経て、談話文法へと分析の単位が拡大していくのは、これまた時代の要請だったともいえる。

本書が出た当時はラボフのニューヨークで調べたデパートの店員の言語の使い分けに関する調査がセンセーションを起こしていたこともあり、社会言語学が一気に注目を浴びていた時期で、まさにその分野が輝いて見えた時代だった。

言語学と隣接の社会科学の変換の過渡期としての「社会言語学」の全盛を見る見込みはあるのだろうか。私の考えでは、その可能性は非常に微妙である。(本書 p.267)

一応これは、日本においてはひとまずの成功を収めたと言っていいだろう。しかしいまだに、文脈と発話のかかわりについては難しいからか、モヤッとしたところで終っている。そもそも文脈とはいろいろな次元が考えられるし、日本語の母語話者でさえも「空気が読めない」と言われることがあるくらい適切な選択が難しいものなのだ。それを参与観察している外部の者にどれだけ分析できるのか。この点がいまだ乗り越えられていない。その点において、本書のいう人と言語のかかわりの探求は、いまだ十分現代的価値を持つのだ。

本書で面白かったのは、『史的言語学における比較の方法』を書いたメイエには手厳しい評価を与えていた点だ。

ある学者の言語区域は、彼の言語のいくつかに彼が伝達的に参加できることを意味しないこともある(偉大なフランスの言語学者のメイエは多くの言語が読めるけれども、フランス語以外の言語は話したり書いたりしたことがないと言われている)し(以下略)(本書 p.73)

比較言語学者だったから、英独はできてあたりまえ、希羅も書けて話せたと思うのだけど。

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史的言語学を担保する厳密性

メイエ, アントワヌ著 泉井久之助訳(1979[1977])『史的言語学における比較の方法』みすず書房

言語地理学は各々の語、各々の形のもつ歴史が、それぞれ特異性をもつことを特に明らかにした点において功績があった。これらの特異性はそれぞれの言語の体系的な全体のなかにその位置をもつものである。この全体のなかにそれらを置くことを忘れて、単に孤立的にのみ見る人は、反対に全体ばかり眼を注ぐのみであって、併せてこれらの全体を構成する特殊事実の各々を十分に正確な批判を持って研究することを知らない言語研究者にもまさって、大きい誤謬をおかすことになるであろう。(本書 p.123)

要するに、守旧の力に乏しく、変化に向う勢力が強い。今日以降、英語は英国と合衆国とで、それぞれ異なる進展の道を辿るであろうことは極めて自然である。
世界における英語の運命をあとづけるのは、ことに教えられるところが多いことと思われる。(本書 p.193)

本書は比較言語学の泰斗であったフランス人言語学者、アントワヌ・メイエの主著である。主に扱われているのは史的言語学(=歴史言語学・比較言語学)において、どのような方法論を持って厳密に祖語を再建(Reconstruction、再構とも)してゆくかについてである。

言語地理学でジリエロンの方言周圏論という成果があるフランスでも、同市年情な広がりを持たない部分もある。それはやはり交通手段によるもので、実は同心円的な分布ではないものの、周圏論の枠組みで語ることができるのだ、というあたり、当時のフランス人にとっては眼から鱗だったはずだ。

「ただひとりの言主では、その地方弁全体を代表する上に、田w賞とも不適当なところがあるのを免れない。手続きは粗大であり、およそにとどまるといわなければならない。しかし唯一可能な方法としては、これしかないのである」(本書 p.110)

と正直に吐露しているあたり、著者への信頼が置ける。この点をどう克服するかと言うと、そこは信頼できる調査者があちこちに行って言主を選ぶしかないのである。これでぎりぎり「雑多な調査者の個性による歪みを考慮する必要がない」(本書 p.111)のだ。

また、よく見落としがちな借用についても

「一個の与えられた言語の形態法の体系が、相異なる二つの言語の形態体系の混合に由来すると考えかねればならないような場合に、われわれはいまだ遭遇したことがない。」(本書 pp.139-140)

と述べている。借用語という意識がある限り、違う言語だという意識が生き続けるからである。

著者が一貫して述べているのは、個別言語・方言へのミクロな探求と同時に、全体の中での位置づけを慎重に行うためのマクロな目配りである。現在の日本での言語学の趨勢を見る限り、比較言語学や類型論のような、細部をみつつ全体の位置づけを考える学問は下火である。しかし英語や中国語といった大言語だけが言語ではなく、そしてそれらの大言語も誕生から今まで、そして未来永劫大言語であるとは限らない。言語とは何か、言語と人とはどうかかわるか。この言語学のテーマを改めて顧みることができる点で、本書の持つ意義は大きい。