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人と機械のかかわり方を通して見えてくるタイらしさ

森田敦郎(2012)『野生のエンジニアリング -タイ中小企業における人とモノの人類学-』世界思想社

タイに移動した機械の多くは新しい環境で出会った要素と安定した関係を築くことができず、その動作は不安定化した。だが、この不安定さは、人々との間に新たな関係を作り出す生成的なものでもあった。奇妙な動作に対処するために何人もの人がコンバインにつきっきりになったように、不安定化した機械は人々の行為を誘発していったのである。(本書 pp.186-187)

本を読んでなかったわけじゃないけど久々の投稿。

この本は前々から気になっていた。やっと読めた。HONZにもレビューがある。

筆者の問題意識は明確だ。タイにやってきた日本企業の技術者は、タイの技術者に技術を教えるとき、彼らが図面を引き直さずに、現物をその場で改造し始めることに驚いた。図面を引き直した方が明らかに効率的で、この失敗を今後生かせるのに。彼らは一体何を考えているのか。

実務に即した疑問から調査は始まった。

タイで見たものは、日本とは違う機械の捉え方だった。機械は動けばいい、動かなければ動くようにすればいい。やり方は使う者が決める。

だからこそ、ブランドが生まれず、多くのメーカーが同じような製品を出す。同じように動き、同じように改造できる機械が求められているから。

当然、新たな機械が持ち込まれると、不具合が起きる。冒頭の引用は日本のコンバインをタイの田んぼに持ち込んだ時の例だ。動かすと草が絡む。ちゃんと動くようにするにはどうすればいいか。

もちろん、機械の改良はエンジニアが手掛けるけど、使うのは農民で、使う場所は農地だから、農民の意見が十分に取り入れられる。動かない機械をめぐって、エンジニアと農民に新たな関係が生成される。

モノに着目しながらも、関係の生成に着目したのが本書の見どころだろう。

エンジンむき出しで手作りフレームのイーテンを見ると、本当にメーカーの思いつかない使われ方をしているのが分かる。

かつて読んだ『差異とつながりの民族誌』、『道は、ひらける』や『王国の鉄路』とは違ったタイが見えてくる。

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サントリー学芸賞 レビュー

雑誌じゃないよ超雑誌『キング』

佐藤卓己(2002)『キングの時代』岩波書店

雑誌メディアは、読者対象を細分化することによって発展するものであり、(中略)つまり、細分化可能な領域が存在する限り、雑誌は「専門化」していくことになる。(中略)こうした個別雑誌による読者の細分化、分節化が完成した段階で、『キング』は階級、年齢、性別を超越した国民統合メディアとして構想された。(本書 p.145)

「国民」とはそれほど消極的かつ受動的な読者だったのだろうか。売上部数の著しい伸張を見る限り、戦況を伝える雑誌に国民は殺到した。膨大な購読者に情報操作の犠牲者、メディア被害者としての免罪符を与えることは、大衆政治における政治的無関心や情緒的行動がもたらした結果に対する国民一人ひとりの責任を不問にすることにほかならない。(本書 p.342)

かつて『キング』(講談社)という雑誌があった。その名の通り雑誌界の王として君臨した。1925年創刊、1957年終刊、日本で史上初めて100万部を突破したオバケ雑誌である。

当時より人口の多い2013年現在、一番売れている月刊誌は文藝春秋の58万部、週刊誌でも週刊文春の70万部であることからも、その名に負けないキングぶりがわかるだろう。

我々と同様、著者も疑問に思う。「なぜそれだけ売れたのか」。しかも、当時の知識人、文化人たちはキングを毛嫌いしていた節がある。じゃあ、逆に何故それだけ売れたのか。どこが読者に受け入れられたのか。

キングの発行年をみてピンと来た人は鋭い。当時の日本は雑誌の揺籃期~草創期だったのに加え、ラジオ放送(1925年)、テレビ放送(1953年)も始まったばかりだった。 この疑問に対する分析の枠組みを、著者は自らの体験から編み出す。即ち、これまでは雑誌や新聞といった媒体ごとに分析する研究が多かったのだ。しかし、雑誌や新聞はテレビやラジオといった他の媒体とリンクしながら消費されていた。これまでの見方では、他のメディアとの関わり合いという観点を取りこぼしていた。 通常、雑誌は読者対象を細分化するメディアである。講談社もそうした雑誌を持っていた。男性、婦人、少年、少女と対象を絞った雑誌のラインナップをそろえた上で、それらを統合する国民雑誌『キング』をリリースした。

いろんな人に読ませる雑誌であったこと、いろんな人を満足させるだけの中身があったこと、まさに「ラジオ・トーキー的雑誌」だ。

大正デモクラシー、普通選挙と参政権、国家総動員体制、ラジオ・トーキー・テレビの誕生。歴史の荒波の中でキングは雑誌界に君臨し、100万部の栄華を極め、33年で幕を閉じた。キングと時代の共存を緻密に描き出している。

当時、大衆を対象とした講談社文化の対立軸として、インテリを対象とした岩波文化が挙げられた。大衆誌のインテリ的分析を行った本書がその岩波書店から出ているのにも、また歴史の妙を感じてしまう。

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テロから密輸、財閥運営までやるイランの秘密警察

宮田律(2011)『イラン革命防衛隊』武田ランダムハウスジャパン

一九七九年五月、イラン革命の直後に成立した革命防衛隊は、宗教的イデオロギーを強く訴え、イスラム共和国では最も強力な組織として機能し続けている。この組織は、宗教的性格を強くもつという点で、世界でも例がない軍隊である。(本書 p.22)

シーラーズの市場でぼくの腕をつかんだ彼らは、革命防衛隊だったのか。

イランには二つの軍隊がある。正規軍と革命防衛隊だ。正規軍は旧王制が有していた軍隊で、イラン革命のあと、新政府は彼らを信用せず、新たに自分たちの軍隊、革命防衛隊を組織した。これは当時、アメリカ大使館占拠メンバーでもあったアフマディネジャド大統領の出身母体でもある。

本書ではその革命防衛隊について、筆者の中東での調査と、米英の報道や公式資料から丹念に迫っている。

イラン国内には革命防衛隊とたもとを分かった左翼防衛隊モジャーヘディーネ・ハルグなどの組織もあって、国内組織を叩くために空爆をしているとか、実はドバイはイランの貿易の玄関口となっていて、正規も非正規もどっちも取引が行われてること、革命防衛隊の粛清では90年代でも生き埋めが行われていたことなど、知らないイランがいっぱいあった。

また、シーア派の力を広げるため、イランは革命防衛隊をイラクやシリアに派遣し、訓練を施している。筆者の分析によると、アメリカがイランを攻撃した暁には、イラク以上の惨事となり、各地でアメリカ軍や親米国家の関連施設、イスラエルや同国関連施設が狙われる作戦が立てられているらしい。

本書の理解にはイスラム国家に対する理解が必要となる。イスラム国家では国家以上にクルアーン(コーラン)に忠実かどうかを決める法学者の地位が高い。そのため、法学者がそのイスラム性を否定すれば、国家もなくなってしまう。これがイラン革命だった。そのため、国家に属する軍隊と、クルアーン(コーラン)に忠実な軍隊が共存する。本書では宗教的性格を強くもつ、世界で例がない軍隊と述べているが、国家に属さず、イデオロギー的性格を強くもつ軍隊であれば、他に中国の人民解放軍(中国共産党の軍隊)と朝鮮人民軍(形の上では、国防委員会が最高軍事指導機関だけど)がある。これらを想起すれば、まだ想像しやすい。

事実と分析を書いた書であって、思想的な面にはほとんど触れられていない(十二イマーム学派の説明が少しある程度)。そのため物足りなさはあるが、現段階で得られる資料としては有益だ。イランに対する見方も変わる。

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修辞学以前のレトリック

リチャード・A・レイナム 著/早乙女忠 訳(1994)『雄弁の動機-ルネサンス文学とレトリック』ありな書房

レトリック的人間は生来、単一の価値体系ではなく、複数の価値体系に支配される。つまり単一の世界観を信奉するのではなく、眼前に展開する現実の問題に専心する。レトリック的人間は熱心党にはなれない。創造的思考、新たなる認識の体系に無縁な人間なのだ。レトリック的人間は、現実を発見するのではなく、それを操作するように訓練される。彼にとって実在は、一般に現実として受容されているもの、また有用なものに限定される。(本書 p.16)

レトリック的人生観は、いたるところでシリアスな人生観を脅かす。(中略)西欧的自我はその当初から、レトリック的人間とシリアスな人間、あるいは社会的自我と中心的自我の、変わりやすくつねに不安定な結合から構成された。(本書 p.18)

レトリック的な座標軸とシリアスな座標軸は、両極限の状態である。シリアスな現実からすれば、過去にはさまざまな出来事が存在し、過去から遊離した現在という地点に立つ人物が、出来事の内容を人に語ることが可能である。レトリック的現実の場合は、それとは異なり、一切が現在である。それゆえこれら(筆者註:シェイクスピアのヘンリー諸王劇)四篇の芝居では、登場人物が真に演劇的な自我であり、単に過去に固定されている限り、彼らは真に過去に生きる。同時にその存在はたえず流動しているのだから、まさに現在しか認識しえず、彼らが演ずる劇は現在の時間の中に存在する。(本書 p.264)

本書はこれまでの西欧理解に新たな側面を付け加えてくれた。

西欧には元来、「かくあるべし」という真面目な(シリアスな)態度と「こう読めるよね/ぼくはこう読むよ」というレトリック的な態度があった。

だから戯曲の長いセリフも、シリアスな人たちは「この文章は明晰である」という前提のもと、文章の意味と、さらに深い読みをしようと試みる。

レトリック的人間は違う。彼らは人の心を動かし、不透明である現実の不透明さをさらけ出すため、言葉の美しさをたたえるため、幸せや悲しみを表すために、レトリックを用いるのだ。

衣装を考えてみたらよい。被服の本来の役割は寒さに耐えるため、身を守るためだった。そこに、自分をきれいに見せるためという、元来の役割に別の役割が付け加えられた。言葉もそれと同じである。物事を伝えるための「もの」的言葉のほかに、どういう文脈を紡ぎだし、事実をどう位置付けるかという「こと」的言葉があったのだ。「社会的自我」であるシリアスな人間は社会的に容認されるような言い方や意味付けを考える。「中心的自我」であるレトリック的人間は自分の快楽のために言い回しや道理付けを考える。

この二つの見方があると知ってこそ、中世文学の見方が変わってくる。そして、西欧への見方も変わってくる。レトリックな文脈をシリアスに読むことは無粋だし、逆もまた然りだ。それと同時に、この見方を知ることで主観対客観という西欧が有する二元論の根深さも理解できる。

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コセリウの考えを知るために

エウジェニオ・コセリウ著/田中克彦・かめいたかし訳(1981)『うつりゆくこそことばなれ』クロノス

構造主義は変化(改新の拡散)を転化(別の構造による構造の置き換え)と同一視し、古いのと新しいのとの二つの構造がならび存しているすべての中間段階を無視する。(本書 p.178)

ソシュールの中には、(中略)数々の矛盾ともめぐりあう。これらの矛盾は、かれの採った観点に起因するばかりではなく、かれの学説のいくつかの本質の側面からも生じてくるのである。すなわちa)いたずらに言語の状態と言語そのものとを同一視してしまったこと。b)言語を「出来上がった体系」、つまりエルゴンとする考え方、さらにc)言語をデュルケーム的な「大衆」というつかみようもない雲の上に追いやってしまったことである。それはプラトン主義を一まわり小ぶりにした亜流であり、これによって言語と具体的な言語活動との分離がもたらされた。(本書 pp.206-207)

ソシュールは、ラングはパロールを通じて変化するものだと教え、さらに、変化の初発の瞬間は「採用」だと見ている。それにもかかわらず、(中略)ラングの中には「状態と状態との間に生ずる変化の居場所はどこにもないのである。(本書 p.209)

共時態を無視することは、まさに時間の中に継起するところの言語を無視することになり、対象の外に立つことを意味するからである。部分は全体から、一段階は全過程から切り離すことができるのと同じ意味で、言語史の一時点は、他の時点を考慮することなく記述できる。しかし、全体の記述は部分を無視することはできないし、過程の記述は、その一つ一つの段階を無視することはできない。おなじくまた「体系化」の研究は、まさにこの体系化そのものの各瞬間を無視し得ない。(本書 p.230)

英語で論文を書かなかったせいか、英語圏ではあまり有名でないらしいコセリウの著書。日本では有名なはず。

本書は題名からわかるとおり、エネルゲイアとしての言語について焦点をあてたもの。すなわち、言語は完成された動かないものではなく、常に変わりつつあるものであるという、フンボルトのあの考え方を念頭に置いたものだ。

ソシュールやメイエといった有名な文法家たちの考え方を批判し、彼らの考え方の齟齬と、あるべき見方について論じられている。具体的には

  • ソシュールはラングを重要視したが、本来重要視されるべきはパロールとその集合体であるランガージュであること
  • ソシュールの提示した共時的と通時的な分け方は、あくまでも分析ためであって、言語がそのような二面性を持っているわけではないこと

である。

前者については最近のマクロは本当にあるのかという議論にも通じるし、実態として把握できるのは実際に話されている言語であり、言語の変化を決めるのはその言語の話者たち(ランガージュの担い手たち)であるという指摘はもっともである。

後者の視点は、とても面白い。これはトマス・クーンの『科学革命の構造』でも論じられていたけども、変化とはじわじわ起こるものではなく、ある時急に起こる。それは科学のパラダイムにしても、言語の構造にしても同じである。この点を指摘したコセリウは見事だし、やられた、と思った。

多くの言語学者は言語の変化をゆっくりと漸進的に行われると思っているのだが、それは実は違う。日本語も七つか八つの母音があったのが、いまの五つの母音になったのは、徐々に二つの母音が一つに融合していったのではない。おそらく六つの母音の体系が出現し(改新)、しばらくは六つの母音の体系と以前の体系が併存していたが、ある瞬間に大多数の話者が六つの母音の構造を選択し(拡散)、構造の変化が起こったのだろう。現にコセリウはヨーロッパの言語の音韻構造を持ち出して、その実例からこの理論を導き出す。しかし逆は必ずしも真ならず。たとえある時代のある言語で二つの母音が融合したからと言って、同じ二つの母音が存在する言語において、同じく融合するとは限らない。ただ、融合する可能性があると指摘できるだけだ。

そう考えると、結局比較言語学って何なんだろう。言語の変化の道筋を描いてきたけれど、それは単に可能性の指摘だった。やるべきはやはりサピアの言ったように、ドリフト、すなわち改新と選択の志向を探り当てることなのだろう。

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数少ない日本語で読める文献学入門書

中島文雄(1991)『英語学とは何か』講談社

実に国家は現在において具体性を保持する限りの最大の生命単位である。しかもその特殊なる統一性の意義のため歴史の主体として最も適当な単位であって、これが国史の存在理由である。(本書 pp.117-118)

フィロロギーとしての英語学はどこまでも歴史的である。それは決して材料の年代順の記述ではない。歴史的生活に即しての言語の考察である。シェイクスピア時代の言語状態は当時のルネッサンスの空気に影響されて華やかにしかも混乱した時代相をそのまま反映している。英語史家はまず文化史的に当時の言語状態を認識しなければならぬ。 シェイクスピアはこの時代にあって言語を駆使した。彼の言語は社会的制約を受けているとは言えるが、その中にあって彼自身の言語を選択する自由は彼にあった。彼は自己の個性に従って言語を使用し、自己の体験を表現に持ち越してきゃかん的存在とし、それを通して再び時代の現在と未来との流れに投げ返した。ここに歴史的意義がある。そこを明らかにするのがフィロロギッシュな研究である。(本書 p.194)

看板に偽りあり、と言いたくなる本だ。

題名からすると「英語学」について書いてある本かと思いきやさにあらず。いわゆるEnglish Linguisticsではない。English Philology(英語文献学、とでも訳せようか)とは何かについて書いてある本だ。そしてまっとうなことに、まずはPhilologyとは何かについてを延々と語り、その中の英語に限ったPhilologyとその意義について語っていくたいへん見通しが良くなる本である。

Philologyとはすなわち、文献を通じてある人々の世界の見方を知る(認識の認識、と著者はいう)ための学問である。彼らがどのように暮らしていたのか。その解釈方法として公的生活、私的生活、宗教、芸術etcと暮らしを要素に分類していき、それぞれに解釈を加えていく。要素同士の関係は批評と言われるものだけど、それは難しいのでひとまずはおいておき、まずは解釈から入る。その際に一番大事なのは文献を読むことであり、当時の言語の解明であった。そのために今でいう言語史や比較言語学という分野が重用されるのだ。

なんで比較言語学なんていう微に入り細を穿つような、気を見て森を見ないような学問があれだけ盛り上がりを見せたのかは僕にとっては長年の謎だったのだけど、この本でそれが氷解した。確かに比較言語学はパズルのようで面白い。しかしそれは学者の知的遊戯であって、誰も幸せにしていないのではないか、と思っていたら、そもそも人文学の遠大な目標の第一歩だったのだ。

もちろん、ここで射程に収めているPhilologyはとても広い分野を対象とするため、一人では行いきれないから、分業制を行う。ある者はドイツ語フィロロギーを、そしてある者は英語フィロロギーを、という具合に。

もはや最後のほうにある生成文法の説明なんかいらなかったのではないかというぐらいに、前半部分の記述は濃厚だ。逆に生成文法の記述箇所よりも現代性を有しているといえる。結局プロトタイプ意味論とか認知言語学とか、いまだに言語学は遠大な目標を見失った、分業のための分業をしているのではないか。

国家という概念が揺るぎ始めたこの時代に、言語学の世界でも20世紀には言語連合という概念も出てきたことだから、もう一度「国家を基礎としないPhilology」を再検討する必要があるのではないか、などいろいろと考えさせてくれるきっかけとなった本だった。

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労働理論の総まとめ

今村仁司(1981)『労働のオントロギーフランス現代思想の底流』勁草書房

認識といえども人間が社会関係の中でおこなうひとつの世界獲得形式であるというのがマルクスの基本的な立場である。いいかえれば、認識は人間が世界とかかわる社会活動の一領域である以上、認識活動は社会的実践過程の一局面でしかない。社会的行為の基礎概念をわれわれは労働とよぶ。したがって認識は基礎的労働を構成する一モメントとなる。(本書 p.24)

多くの唯物論者たちは、「生産」活動を唯物論的世界観の基礎だと主張してきたが、実際には、かれらはイダリスムの基礎概念を称揚してきたにすぎない。「生産」(超越、対象化、客観化……)こそイデアリスムのエレメントであるから、観念論的世界観の根拠づけを「生産」に求めるイデアリスト(例えばヘーゲル)の主張は、きわめて正当である。唯物論者たちは、観念論者たちと「生産」概念の争奪戦をくりかえしてきたわけであるが、原理的にいってその勝負の結末は眼に見えている。言うまでもなく、唯物論者たちの負けだ。(本書 p.219)

今村仁司の訃報では、代表的な著書として挙げられていた『労働のオントロギー』。僕は『暴力のオントロギー』や『儀礼のオントロギー』などは読んだものの、本書は読んだことがなかった。いや、読んだことがなかったのではなくて、一度読もうとして、最初のアルチュセールのところで挫折したのだ。文庫で出た『アルチュセール全哲学』を上滑りながら読み終え、数年のスパンを開けて本書をひも解いた。働いている人には読んでもらいたい本だ。

本書の構成は、最初にマルクスの労働のフランスでの研究概況を見るため、ルイ・アルチュセール、コルネリウス・カストリアディス、ミシェル・アンリの思想について概観し、その問題点を克服していく。それで三章を使い、第四章からはそれらの批判を加え、問題点の克服を試みる。社会をもろもろの生産活動としてみる(本書 p.201)アルチュセール、線形の変化をする「生産」と非線形の変化をする「創造」の一半を明らかにしたカストリアディス、超越の根拠としてライプニッツのモナド的な生を持ってきたが、モナドゆえに社会的関係をとりこぼしかけているアンリ。彼らの理論を継承しつつ、どうくみ上げていくかを今村は課題としているが、中でもアンリの非対象化の導入を称賛している。

すなわち、フーリエの言うように労働には「いやな労働」(travail repugnant, industrie repugnante)と「楽しい労働」(travail atttrayant, industrie attractive)があり、前者は分業を行う対象化活動だが、後者は分業を廃棄した非対象化活動である。すなわち「異質性を同質化する活動ではなく、異質な諸活動を異質なままに実現する根拠としての活動」(本書 p.258)である。そこではアソシアシオンという社会的つながりが求められる。すなわち、生産されるモノ(対象)ではなく、つながるコトが第一となり、それこそが快の源泉となるのである。

今村仁司も翻訳にかかわった『ドイツ・イデオロギー(抄訳)』で妙に印象に残った「朝には狩りをし、午すぎには魚をとり、夕べには家畜を飼い、食後には批判をする」という「悪名高い箇所」(本書 p.249)も本書では引用がされ、そこまで批判するものではない、という見方が呈示されている。このころから、今村はブレていない。

哲学もしなければ経済学者でもない我々が本書を読んで身につけるべきは、「いやな労働」と「楽しい労働」の比率をいかに変えていくかということ。前者の量を減らすのは努力だけでは限界がある。それでは後者を増やすことを考えればいいのではないか。人間とは周りとかかわって生きていく生物なのだから、そのかかわりを大事にして、分業を廃棄してその人らしさを発揮(全体的個人の表出)し、生きていくように、すなわちプラスを増やしてマイナスを凌駕していくようにするのも一つではないか。

言うことはもっともだけど、実践は難しいよなあ、と思う。難しいといって匙を投げずに努力しよう。

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聖と俗に振れる宗教

ヒューム, デイヴィッド、福鎌忠恕ほか訳(1992)[1972]『宗教の自然史』法政大学出版局

人々の誇張された賛辞や追従が、それでもなおこれらの諸力についての人々の観念を膨張させる。そして彼らの神々を完全性の最極限まで高揚させて、ついに統一と無限、単一性と精神性の属性を産み出す。このような繊細な観念は俗衆の理解にそもそも対応していないので本来の純粋性に長い間とどまってはいない。そして人類とその至高神の間に介在する下級の介在者ないし従属的な代理者の概念によって支持されることを要求する。これらの半神半人ないし中間的存在は人間本性により多くあずかり、またわれわれにいっそう親密なので、敬虔の主要な対象となり、小心で貧窮した人類の熱烈な祈願と賛辞によって、以前に追放されてしまっていた偶像崇拝教をしだいに呼び戻す。(本書 pp.53-54)

来世の信仰により顕示された快適な視野は、忘我的で歓喜にあふれている。しかしそれは、宗教の恐怖の出現とともになんとすばやく消滅することであろう。この恐怖は人間精神をより強固に、より永続的に占拠するのである。(本書 p.105)

本書は佐藤優がアーネスト・ゲリナーの『イスラム社会』を絶賛する中で言及した、ヒュームの振り子理論が掲載されている本である。

要は一神教は素晴らしい、多神教はまだまだレベルの低い連中が信じているから、相手にしないでいい。そもそも多神教って、神々は一体だれが作ったのさ?ってことになるでしょ。というお話。そのため、多神教の本場、ギリシャのお話がいっぱい出てくる。一神教の立場からしたら論理的に多神教を受け入れないのもわかるし、ギリシャの放恣な神様と日頃の倫理を比べたらぜんぜん違うから、乗り越えるべき矛盾があるのもわかる。ただ、そこに21世紀の、そしてキリスト教徒でない者が読むべき現代性があるかどうかは微妙なところ。

肝心の振り子理論にしても、ゲリナーが書いてある通り、まずは身近なところに神々を見つけて、人々は多神教、偶像崇拝に走る。そこから、それらの神々や偶像の創造者に心をとめるようになり、すべてを支配するただ1つの神を信じるようになる。そうして洗練された一神教が出来上がるが、あまりにも洗練されすぎたために多くの大衆はついていけず、身近な神の代理人を作り出す。そしたら神の代理人がまた直接信仰を集めて多神教になり…の繰り返しというお話。

この振り子理論、面白いんだけど、結局2次元的な往復でしかない。ヘーゲルのいう弁証法は3次元的な螺旋のはずで、そのほうが理論としては面白い。しかしこの場合、一神教を克服したうえで多神教になるのかと思ったら、前提が蒙昧な俗衆なので、一神教を信じていたころのことを忘却して、また多神教、偶像崇拝を始めて元の木阿弥に戻るとみなしているんだろうから、たぶん振り子でいいんだろうと思う。

でもやっぱり、理論としてはヘーゲル的弁証法の3次元(螺旋)のほうが面白いし、現代性があると思う。

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暇がなくても読書をする方法

鹿島茂(1993)『暇がないから読書ができる』文藝春秋

大学の授業や雑用のほかに、新聞・雑誌に雑文を月に百枚以上は書いているので暇はまったくないのだが、なぜか、読書量は、書評のためのものを除いたとしても、急激に増加しているのである。だいたい最低でも、月に三十冊くらいは読む。(本書 pp.179-180)

これまた忙しかったせいもあり、鹿島茂の書評でも読んで気を紛らわせようとしたところから、本書を読み始めた。いつも書評を読むと思うのだけど、世の中には僕の知らない本はもちろんいっぱいあって、その中の相当数がこれまた面白そうなのに、なぜか寿命は長くないということ。

本書はやっぱり上手に面白そうな本を紹介しているのだけど、あとの方になるとほめてばかりで、多少はけなさないとこの人はなんでもほめるんじゃないかと思えてきてしまう。だから暇がないとか文句を言いつつも本を読んでは感想を書いている前半の方に好感をもった。

本書で紹介されている本でも、知らない本ばかり。でも確かに本屋に行ってみればおいてある本もまだまだ多い。サイパンに行くときにも本を持って行ってちゃんと読んでいたり、フランスの古本屋めぐりをするっていうのに十冊も本を持っていったりと(これは半ば仕事のため)、本当にすごい人だと思う。本は重いので、はっきり言って旅行の邪魔なのだ。しかし本がないと移動中にすることがなくなってしまう。このジレンマを解決する方法は、ぼくはまだ見つけていない。

逆に言うと本を読むしかないわけで、台湾のように人懐っこい人たちがいる国では、列車や飛行機の中で隣の人と話すこともあるけれど、アメリカの国内線なんかは機内サービスもないわフライト時間は長いわで、本当に何もすることがない。ネットもできないしパソコンを開くのも大仰だ。そう、本を読むしかないのだ。

そのためには、書評でも読んで読みたい本をピックアップするというのも、ひとつの手なのだ。

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世界はドーダで満ちている!

鹿島茂(2007)『ドーダの近代史』朝日新聞社

ドーダ学というのは、人間の会話や仕草、あるいは衣服や持ち物など、ようするに人間の行うコミュニケーションのほとんどは、「ドーダ、おれ(わたし)はすごいだろう、ドーダ、マイッタか?」という自慢や自己愛の表現であるという観点に立ち、ここから社会のあらゆる事象を分析していこうとする学問である。(本書 p.5)

普通の基準からすると、こうした人間はありえないような気がする。だが、私は語学教師の端くれなので知っている。兆民のような純粋の語学バカ、シニフィアン人間は実在すると。語学と言うのは、その才能がある人間にとって、生きていくことの支え、おのれの自尊心をくすぐる立派なドーダ・ポイントともなりうるのである。(本書 p.239)

最近仕事が忙しかったのもあって、すいすい読める本を探していた。たまたま、千夜千冊で紹介されていたのを読んで、これを読もうと思った。そこに書いてある通り「ドーダの超論理というのは、べつだん難しいものではない。学問でもないし、高遠なものでもない」のである。ただ分厚いので読みごたえはあるし、鹿島茂のこと、やっぱり読ませる。

本書は幕末の時代に跋扈したドーダさんたち、「マイッタか!」と相手に自慢したいがために、頑張ったり頑張らなかったり斜に構えたり死に物狂いになったりする人たちの系譜を紹介している。

僕は松岡正剛とは逆で、最初のころの陽ドーダよりも後半の陰ドーダ、内ドーダに興味を持った。中江兆民をシニフィアンの人(書いてあることよりも、外国語の響きにひかれて語学の上達を一身に願った人)と述べているあたり、語学者として大変共感を覚えた。そこがシニフィエの人へ転換したかどうかの真実性についてはともかくとして。基本的に三つ子の魂百までなので、シニフィアンの人はシニフィエへの転向を目指したとしても、やっぱり限界があるし、シニフィアンへの思いはそう簡単に断ち切れるものではないと思うから、ここは保留にしている。

しかし、兆民とルソーの思想的バックグラウンドを対比しだすあたりからは、鹿島茂らしい細かさを持ち出して来て、さすがだなあと思わせた。

最近の文脈に照らしてみると、絶望の国でも幸せに生きる若者たちは陰ドーダなんだろう。すなわちa×b=1の図式に於いて、a=内面、b=外見として、外見にお金をかけないし興味もないフリをして、bを減らした結果、自動的にaが上がる。すなわち「そんなことより内面さ」と斜に構える風潮、これが今はやりの内ドーダである。もはや消費を知らない世代な上に、将来に不安だらけだから仕方ない。

世の中にはいろんなドーダがあって、結局人はドーダに籠絡されつつ生きるしかない。では今の時代、どうやって幸せに生きるのか。本書に少し述べられていた、人のいいボンクラを上に据えて、徳のない秀才を輔弼に据える、というのが一つの可能性で或る気がする。