修辞学以前のレトリック


リチャード・A・レイナム 著/早乙女忠 訳(1994)『雄弁の動機-ルネサンス文学とレトリック』ありな書房

レトリック的人間は生来、単一の価値体系ではなく、複数の価値体系に支配される。つまり単一の世界観を信奉するのではなく、眼前に展開する現実の問題に専心する。レトリック的人間は熱心党にはなれない。創造的思考、新たなる認識の体系に無縁な人間なのだ。レトリック的人間は、現実を発見するのではなく、それを操作するように訓練される。彼にとって実在は、一般に現実として受容されているもの、また有用なものに限定される。(本書 p.16)

レトリック的人生観は、いたるところでシリアスな人生観を脅かす。(中略)西欧的自我はその当初から、レトリック的人間とシリアスな人間、あるいは社会的自我と中心的自我の、変わりやすくつねに不安定な結合から構成された。(本書 p.18)

レトリック的な座標軸とシリアスな座標軸は、両極限の状態である。シリアスな現実からすれば、過去にはさまざまな出来事が存在し、過去から遊離した現在という地点に立つ人物が、出来事の内容を人に語ることが可能である。レトリック的現実の場合は、それとは異なり、一切が現在である。それゆえこれら(筆者註:シェイクスピアのヘンリー諸王劇)四篇の芝居では、登場人物が真に演劇的な自我であり、単に過去に固定されている限り、彼らは真に過去に生きる。同時にその存在はたえず流動しているのだから、まさに現在しか認識しえず、彼らが演ずる劇は現在の時間の中に存在する。(本書 p.264)

本書はこれまでの西欧理解に新たな側面を付け加えてくれた。

西欧には元来、「かくあるべし」という真面目な(シリアスな)態度と「こう読めるよね/ぼくはこう読むよ」というレトリック的な態度があった。

だから戯曲の長いセリフも、シリアスな人たちは「この文章は明晰である」という前提のもと、文章の意味と、さらに深い読みをしようと試みる。

レトリック的人間は違う。彼らは人の心を動かし、不透明である現実の不透明さをさらけ出すため、言葉の美しさをたたえるため、幸せや悲しみを表すために、レトリックを用いるのだ。

衣装を考えてみたらよい。被服の本来の役割は寒さに耐えるため、身を守るためだった。そこに、自分をきれいに見せるためという、元来の役割に別の役割が付け加えられた。言葉もそれと同じである。物事を伝えるための「もの」的言葉のほかに、どういう文脈を紡ぎだし、事実をどう位置付けるかという「こと」的言葉があったのだ。「社会的自我」であるシリアスな人間は社会的に容認されるような言い方や意味付けを考える。「中心的自我」であるレトリック的人間は自分の快楽のために言い回しや道理付けを考える。

この二つの見方があると知ってこそ、中世文学の見方が変わってくる。そして、西欧への見方も変わってくる。レトリックな文脈をシリアスに読むことは無粋だし、逆もまた然りだ。それと同時に、この見方を知ることで主観対客観という西欧が有する二元論の根深さも理解できる。


コセリウの考えを知るために


エウジェニオ・コセリウ著/田中克彦・かめいたかし訳(1981)『うつりゆくこそことばなれ』クロノス

構造主義は変化(改新の拡散)を転化(別の構造による構造の置き換え)と同一視し、古いのと新しいのとの二つの構造がならび存しているすべての中間段階を無視する。(本書 p.178)

ソシュールの中には、(中略)数々の矛盾ともめぐりあう。これらの矛盾は、かれの採った観点に起因するばかりではなく、かれの学説のいくつかの本質の側面からも生じてくるのである。すなわちa)いたずらに言語の状態と言語そのものとを同一視してしまったこと。b)言語を「出来上がった体系」、つまりエルゴンとする考え方、さらにc)言語をデュルケーム的な「大衆」というつかみようもない雲の上に追いやってしまったことである。それはプラトン主義を一まわり小ぶりにした亜流であり、これによって言語と具体的な言語活動との分離がもたらされた。(本書 pp.206-207)

ソシュールは、ラングはパロールを通じて変化するものだと教え、さらに、変化の初発の瞬間は「採用」だと見ている。それにもかかわらず、(中略)ラングの中には「状態と状態との間に生ずる変化の居場所はどこにもないのである。(本書 p.209)

共時態を無視することは、まさに時間の中に継起するところの言語を無視することになり、対象の外に立つことを意味するからである。部分は全体から、一段階は全過程から切り離すことができるのと同じ意味で、言語史の一時点は、他の時点を考慮することなく記述できる。しかし、全体の記述は部分を無視することはできないし、過程の記述は、その一つ一つの段階を無視することはできない。おなじくまた「体系化」の研究は、まさにこの体系化そのものの各瞬間を無視し得ない。(本書 p.230)

英語で論文を書かなかったせいか、英語圏ではあまり有名でないらしいコセリウの著書。日本では有名なはず。

本書は題名からわかるとおり、エネルゲイアとしての言語について焦点をあてたもの。すなわち、言語は完成された動かないものではなく、常に変わりつつあるものであるという、フンボルトのあの考え方を念頭に置いたものだ。

ソシュールやメイエといった有名な文法家たちの考え方を批判し、彼らの考え方の齟齬と、あるべき見方について論じられている。具体的には

  • ソシュールはラングを重要視したが、本来重要視されるべきはパロールとその集合体であるランガージュであること
  • ソシュールの提示した共時的と通時的な分け方は、あくまでも分析ためであって、言語がそのような二面性を持っているわけではないこと

である。

前者については最近のマクロは本当にあるのかという議論にも通じるし、実態として把握できるのは実際に話されている言語であり、言語の変化を決めるのはその言語の話者たち(ランガージュの担い手たち)であるという指摘はもっともである。

後者の視点は、とても面白い。これはトマス・クーンの『科学革命の構造』でも論じられていたけども、変化とはじわじわ起こるものではなく、ある時急に起こる。それは科学のパラダイムにしても、言語の構造にしても同じである。この点を指摘したコセリウは見事だし、やられた、と思った。

多くの言語学者は言語の変化をゆっくりと漸進的に行われると思っているのだが、それは実は違う。日本語も七つか八つの母音があったのが、いまの五つの母音になったのは、徐々に二つの母音が一つに融合していったのではない。おそらく六つの母音の体系が出現し(改新)、しばらくは六つの母音の体系と以前の体系が併存していたが、ある瞬間に大多数の話者が六つの母音の構造を選択し(拡散)、構造の変化が起こったのだろう。現にコセリウはヨーロッパの言語の音韻構造を持ち出して、その実例からこの理論を導き出す。しかし逆は必ずしも真ならず。たとえある時代のある言語で二つの母音が融合したからと言って、同じ二つの母音が存在する言語において、同じく融合するとは限らない。ただ、融合する可能性があると指摘できるだけだ。

そう考えると、結局比較言語学って何なんだろう。言語の変化の道筋を描いてきたけれど、それは単に可能性の指摘だった。やるべきはやはりサピアの言ったように、ドリフト、すなわち改新と選択の志向を探り当てることなのだろう。